タイトル

鉄道の現場を染めるもの

 かつて鉄道の現場というものは、硬派で体育会系の現場でした。列車の運行の安全を守るためには、規律とか執務の厳正とかが必要なわけで、軍隊調とまでは言わないものの、ちょっとそれに似た雰囲気がありました。それと労働運動も猛々しかった。24時間とか48時間とか時には72時間とか電車を止めてストライキを打ったものですよ、昭和の時代にはね。国民春闘だぁ、我々が全国労働者の闘いの旗頭なのだぁ、ってね。
 でも、始終リキ入ってたわけでもないんですけど。そこはそれ人間だから。鉄道員だって遊ぶ時は遊んだ。酒飲みも多かったね、酔って暴れたりとかも。荒くれ男たちの、鉄と汗の臭いのする現場だったわけですよ。
 ところが、賃金と労働条件の改善に伴い、次第に闘いの手をゆるめるようになり、労使協調なんていう知ったふうな言葉が横行するようになり、春闘は形骸化し、労働組合も無力化して行った。時代の流れと申しましょうか。鉄道員もおとなしく上品になってきたわけですよ。

 そして時は平成。鉄道員が熱く燃えていた時代を知らない若い人たちは、燃える代わりに「萌え〜」とか口走って、アニメだとかゲーム、美少女フィギュアに魅入っている。鉄道員がだぜ? こんな軟派なことで列車が正常に走るのかよ。
 人々の生命財産を運ぶ鉄道員が、ひとたび制服を脱ぐと、アニメオタクに変身し、あまつさえメイドカフェ通いなどしてるなんて知ったら、お客さんたちは、安心して列車に乗れるでしょうか。あなた、乗れます?
 でもね、オタク文化なるものは、日本国内のみならず世界をもすごい勢いで席巻しつつある。資本家たちが権力で社会を制しようとしている陰で、オタク文化はマルチメディアと電脳のパワーですさまじいネットワークを築き、別次元の社会を構築してしまっている。鉄道の現場も、この大きな波から逃れることはできなかったわけですよ。
 そしてオタク文化への造詣を深めて行くと、鉄道の新たなかたち、新たな利用法が見えてきたりします。旅行と通勤の手段としては、モータリゼーションに大きく水をあけられましたが、交通と情報のネットワークとして捉えると、車社会に真似できないすごい使い道が見えてきます。
 鉄道会社はまだまだこのことに気づいていませんけどね。オタクたちはちゃんと知っています。知っていて、どんどん浸食しているのですよ。恐ろしいですね。

 筆者は、この道○十年の現職鉄道員です。雨の日も風の日も雪の日も、列車を走らせてきました。であると同時に同じ歳月をアニオタ(アニメを嗜好する清く正しい人)として歩んできました。「うる星やつら」世代ですよ、あたしゃ。同人誌もフィギュアもコスプレもそして近年はメイドさんも、オタク街道に列するものはおおよそ舐めてまいりました。
 鉄の臭いのキツい頃から比べると、今の職場はオタクも住みやすくなりましたよ、ハイ。そんな筆者がですね、鉄道の現場の裏表と、そこで繰り広げられる喜怒哀楽について、つらつらと語ってみようかと、そう思うわけですよ。
 みなさん、お乗り遅れないよう、よろしくお願い申し上げます。
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■列車運行のしくみ■

 列車がどのような仕組みで運行しているのかについて、お話しします。鉄道員にとっては言わば常識で、これを知らなければ列車を走らせることはできません。なので、専門家はこの章は読んでいただかなくてもけっこうです。読んでもつまらないと思います。まぁ、業務知識の復習ということで読んでいただけるのなら、勝手にすればよいですけど。
 筆者は、鉄道のしくみについてまったくご存じない方に対して御たいそうな自慢話をしたいわけで、物知り顔の専門家を相手にしてもおもしろくないわけですよ。
 そういうわけで、ここは列車運転の基礎中の基礎について、おおげさに物々しく語ってやるとするか、などと企んでいたりするわけですね。

鉄道信号

 道路に設置してある交通信号は、赤黄緑の3色の電灯で表現されますが、鉄道で用いられる主な信号もこれと同じです。じつは他にも様々な信号があって、さらには常時同じ運転条件を表示するための標識ってのもあるのですが、ここでは、主信号機のしくみについてお話しします。
 道路の信号は、緑→黄→赤のローテーションで表示が変わりますが、鉄道信号はまったく逆です。赤→黄→緑と変わって行きます。お時間があれば線路沿いの鉄道信号を見つけて、じっと観察してみてください。ただし、鉄道信号には目玉が4つとか5つとかいうのもふつうにあって、黄と緑が同時に点いたり、黄色2つが点いたりなんてパターンもあっていささか複雑でご注意を。
 鉄道では線路をたくさんのトラック(区間)に分割し、各トラックに1つずつ信号を付けています。1つの信号は1つのトラックの走行条件を表示します。そして信号の表示する走行条件というのは速度です。緑なら無制限、黄色なら時速45キロ以下、赤は止まれ、という具合です。信号が指示する条件速度は、鉄道会社によってじゃっかん違いがあります。
 緑はフリーですが、区間最高速度とか、標識による条件速度とかがあらかじめ設定されているので、無制限にどんどんスピードを上げていいというわけでもありません。
 信号機は各トラックの始点に立っていて、そのトラックに進入しようとする列車に対して、走行速度条件を表示します。信号が赤なら、そのトラックには先行の列車がいるということで、運転士は信号の手前で列車を止めなければなりません。信号が黄色なら、ひとつ向こうの信号が赤つまり、ひとつ向こうのトラックに先行の列車がいるということで、運転士は、黄色が示す条件速度以下にスピードを落として、そのトラックに進入します。電車は黄色でも進むのです。赤以外は進みます。
 先行列車がどんどん先のトラックに進んで行くと、信号はやがて緑に変わりますから、先に述べたように、鉄道信号は、赤→黄→緑と変わって行くわけですね。
 鉄道線路のトラックには、転轍機(ポイント)が存在する場合があります。そこで進路が複数に分岐したり合流したりするわけです。その時には信号は、先行列車の有無だけではなく、分岐や合流の状態も表示しなければなりません。ですから、信号機が分岐や合流の数だけ並んでいたり、数字や標識ランプで進路を表示したりします。運転士は、自分の列車に対する信号機を見極め、自分が進むべき進路が表示されているかを見極めて、列車をそのトラックに進めなければなりません。ひじょうに注意を要する関門です。そしてこの関門をつかさどる信号を絶対信号と言います。
 列車が駅に進入する時、番線がいくつかに分岐しているような場合には、駅の場内のトラックの状況を表示する信号機は、絶対信号ですね。また、複数の番線がある駅から、1本の線路へ向けて列車が発車する時に、合流のための転轍機を持ったトラックを管轄している信号も、絶対信号です。駅の場内のトラックを管轄する信号を場内信号と言います。また駅から出たところの合流ポイントのあるトラックを出発トラックといい、そのトラックを管轄する信号を出発信号と言います。一般的に場内トラックでは列車は複数に分岐し、出発トラックでは合流しますが、場内で合流、出発で分岐というパターンも少なくありません。
 子供たちが、電車ごっこをして遊ぶ時に「出発進行!」なんて言いますよね。あれは実は専門用語として実在します。出発信号機の表示が緑のことを「出発進行」と言うのです。だから出発信号が黄色だったら「出発注意」と言って列車を発車させます。

 もちっと専門的な話しをしますよ。鉄道線路はたくさんのトラックに分けられていますが、そのトラックのことを専門用語で閉塞(へいそく)区間といいます。そして鉄道では1閉塞1列車という決まりがあります。信号はこの決まりを守るために条件に応じた表示をします。信号は1つの閉塞区間を防護しているわけで、閉塞区間のことを、防護区間と言ったりもします。
 自分の受け持つ防護区間に列車がある場合、信号は赤を表示しますが、その列車が事故や故障で動けなくなってしまった場合には、後続の列車は赤信号を無視して、その区間に進入することがあります。1閉塞1列車の決まりを無視した運転のことを、無閉塞運転と言います。列車の運転の円滑を図るために、あるいは事故車を救援するために、後続の列車が無閉塞運転する場合には、細心の注意が必要ですし、最徐行および運転指令への報告といった条件を守らねばなりません。
 しかしながら、先に述べた絶対信号の場合は、絶対に無閉塞運転を行なってはいけません。線路が分岐するなどして閉塞状況が複雑だからです。絶対信号機で無閉塞運転をする場合は、助役や駅長が出動して閉塞区間の安全を確かめ、絶対信号の代用となる信号を表示させます。

 ちなみに、信号機は防護区間の防護を通常は自動的に行なっているので、この交通整理の状況を、自動閉塞式と言ったりします。また、信号機はATSと連動しており、列車が条件速度を守らない場合に自動的にブレーキを作動させて、区間の防護をより確実にしています。
 信号機は踏切とも連動している場合が多く、自動車の立ち往生といった踏切障害をセンサーが検知すると、そのトラックの信号は赤になります。目の前の信号が突然赤になってしまうと、運転士のブレーキ操作が間に合わず、先にATSによる非常ブレーキが動作するので、列車は急ブレーキがかかることになり、乗っている旅客が危険にさらされます。踏切の無謀な横断のせいで、列車の中の旅客が将棋倒しになって負傷するなんてこともあるわけです。無謀横断は絶対にやめましょうね。
 踏切からの距離によっては、なにも非常ブレーキが動作しなくても、ゆるやかなブレーキでも間に合うのに、という場合があります。ATSがもっとインテリジェンスな装置で、場合に応じてブレーキ力を調節してくれればよいのですが、そのようなきめ細かな芸当ができるATSは今のところ存在しません。

 主信号機のお話しは、これくらいでしょうか。その他の信号についてちょっとだけお話しすると、種々のアクシデントが生じたりした場合に、現場にいる係員が主導で、停止や徐行を知らせるための手旗信号(夜間は灯火信号)だとか、踏み切りで異常が発生した場合の、発炎信号や発光信号などがあります。工事区間等で徐行を指示する臨時信号という一見標識みたいなものもあります。
 手旗信号等の信号器具を持っていない時に、駅員が進路の異常を見つけたりした場合にはどうすると思います? 手や帽子を激しく振るのです。そしてこれも運転取扱規定に定められた停止信号なのです。
 ホームから線路に人が転落するといった事故に、読者が遭遇した場合には、この停止信号を試みてみましょう。列車を止めることができるかもです。ただし、いたずらでやってはいけませんよ。運転阻害事故として警察沙汰になってしまいます。

電車走行のしくみ

 鉄道に用いられる車両は、かつては蒸気機関車だとか、ディーゼル機関車だとか、いろいろあったのですが、現在はほとんどが電気車です。その電車のなかにも、モノレールだとか、リニアモーターカーだとか、路面電車だとかいろいろあるわけですが、鉄道の広域ネットワークを高速で走る車両といえば、いわゆる2本のレールをまたいで走る電車ですね。
 電車といえば、屋根にパンタグラフという集電装置が付いてて、電線に流れている電気エネルギーを吸い取ってそれでモーターを回して走っています。地下鉄なんかは線路付近に電気を流すための第3のレールがあってそこから電気の供給を受ける方法を採用している場合が多いです。いずれにしても、動力装置へのエネルギー供給は常時行なわれているので、自動車みたいにガス欠になったりしません。ただ、電線(正しくは架線)が停電しちまうと、電車は一斉に止まっちまいます。
 なんだか、誰でも知ってるようなことを、もっともらしく語ってしまったぞ。んじゃ、いくらかは専門的なことを。架線に流れる電気は一般的に1500ボルトとかの高圧になってます。新幹線は2万ボルト以上です。家庭用電気の100ボルトよりもいささか高いですが、高圧の方が変圧ロスが少なくて省エネ的なんですよ。みなさんのご家庭でも1500ボルトとか使うと電気代が節約できるですよ。ただしコンセントとかがかなりデンジャラスなことになりますけどね。
 それでも、8両編成で200トンから300トンとかになる電車を動かすには、なかなかすごめな電力が必要なので、ご家庭の電気代なんか瞬殺って感じなんですけどね。電車は自動車よりエコロジーとか言われますが、電車を動かすだけの電気を作るために発電所はすさまじいCO2を吐き出したり、核燃料廃棄物を発生したりします。ああ、ここだけの話しですよ。ちなみに工業電力は使用電力単価が破格の安さになっています。これもここだけの話しですよ。ただ、鉄道会社がご家庭並みの単価で電気代払ってたら、鉄道の運賃は高騰しちまいます。

 1つの編成が300トンとかの電車が、ひとたび走り出すと、すごい惰力が発生します。惰力というのは、物体が惰性で進み続ける力ですね。だからひとたび走り出した電車を止めるには大変なパワーを必要とします。たとえば時速100キロで走っている電車は急ブレーキをかけても400メートルくらい走り続けます。8両編成の電車には合計64個のタイヤが付いてて、その方々が全員で頑張って全力でブレーキしてもおいそれとは止まらないんですね。目の前に危険が生じて、運転士がブレーキ操作をしても電車はなかなか止まろうとしません。「この電車ほんとに止まるのか?」と心配になるほど元気よく走り続けます。
 ブレーキをかけずにほうっておくと、時速100で走っている電車は徐々に速度を落しながら、10キロ以上は機嫌よく走り続けます。登り勾配とかがあればそうはいきませんけど。なので、駅を出発して100キロまで加速させると、数キロ先の駅までなら、そのまま惰性で走ります。電車の走行中のプロセスは、最初だけ加速してあとは大半が惰性走行なのです。経済的ですね。

■旅客とのふれあい■

 まだ入社して間がない頃は、旅客に対する感謝の気持ちなんてあまりなかったような気がします。仕事に対する気概も小さかった。駅員という立場で現場に配属された筆者は、駅の仕事というものが、外から見ているよりもはるかに大変で、覚えることがたくさんあって、でもその1つ1つがゲームみたいで、なんでこんなことやってるんだろうって。こんな気持ちで仕事に臨む筆者などに賃金を支払う会社も、ご苦労なことだなぁ、そんな感じでした。
 テレビなんかのインタビューで、働く人たちが、客や取引先に喜ばれた時がいちばん幸せです、とか答えているのを見ると、少しバカバカしかったり。
 でも、労働者として歳月を重ねるうちに、会社よりも何よりも旅客への思いが大きくなって行きました。旅客に喜んでもらえると嬉しい、本当にそれを実感できるようになりました。
 都会を走る電車は、通勤通学用のイメージが大きくて、ラッシュアワーが仕事のメインになります。旅客はみんな忙しくしていて、イライラしてるみたいで、けっして楽しそうに旅行してはいません。それでも、乗車区間が長くなくても、旅行は旅行で、鉄道を利用する客は旅客と言います。
 通勤通学用の車内では、人間のいちばん汚い面が出る、なんて言ったベテランの先輩がいました。なるほどそうかも知れない、そう思いました。座席を奪い合い、他人を押しのけて先を急ぎ、みんな恐い顔をしています。駅員にもしばしば暴言をぶつけて来ます。
 客であるという立場にあぐらをかいて、駅員に言いたい放題、そんな人も少なくありません。おれたちは客の酒の肴か? なんていう同僚の言葉も、その通りだと思いました。
 でもね、ある時ふと思ったんですよ。たくさんの旅客のほとんどは良い人たちで、でなきゃ鉄道の営業形態は成り立たないって。鉄道の利用ってほとんどセルフサービスじゃないですか、自動化がどんどん進んだ最近ではとくにですよね。旅客のマナーと良識で運営されてるわけですよ。
 販売機で切符を買って、改札機にそれを通して、自分で電車に乗って自分で降りて、たいていの場合、鉄道員と言葉を交わすこともなく旅行を終える。大勢の人たちがルール違反をしてたら、鉄道は機能しなくなってしまう。
 良くない旅客はほんの一部なんだ、悪行は目立つから、ついつい良くない客ばかり目についてしまうだけなんだって、そんな当たり前のことに気づくのに、何年もかかったりしましたね。周りは誰もそんなこと教えてくれないし、「客はアホばかりや」なんて言ってる人間ばかり出世して監督職とかになって行くし。
 人間社会は、ほとんどが良い人で、その人たちの良識で成り立っているのに、悪人ばかりがマスコミをにぎわせて、悪徳業者や悪徳政治家ばかりが儲かって……。鉄道の現場は、まるで人間社会の縮図です。

子供たちに手を振ろう

 小さな子供たちは好奇心いっぱいです。電車が好きか嫌いかはともかく、電車のいろんな所を目を輝かせて見ています。我々乗務員も、彼らの興味の対象のひとつのようですね。車掌の仕事、運転士の操業を無心に見つめています。かなり照れます。
 多くの子供たちが、駅を発着あるいは通過する電車に対して手を振ります。でも電車は応えてくれません、寂しい話しです。なのでチャンスがあれば筆者は子供に手を振り返すようにしています、電車の代わりにね。
 子供たちの中には電車だけに目を奪われていて乗務員が手を振り返しても気づかないことも多いです。でも気づいた子供は、次からは乗務員に対して手を振るようになります。
「運転士(または車掌)さん、バイバーイ」なんて声をかけられると、たいへん幸せな気持ちになります。たとえブルーな気分でいたとしても、心にでっかいスマイルが浮かび上がります。爽快な気分で安全運転ができます、おおげさな意味じゃなくてね。
 しかし子供に手を振るのは意外に難しかったりします。人の多いホーム上で、ひかえめに手を振る子供を、動く列車の中から見つけるのは容易じゃありません。間近に接近して見つけた時にはすでに遅く、列車はその場を行き過ぎてしまいます。
 手を振っているのに乗務員に無視された子供は、きっと傷つくことでしょう。応えることができなかったこちらも胸が痛みます。
 動いている電車の乗務員に対して手を振る時は、なるべく早めにそして目立つように振ってくださいね。とは言え、ホームの端(線路側)はたいへん危険ですから、充分に注意しましょう。
 子供たちによっては、停車中の電車の乗務員に手を振りに来る方も少なくありません。あれは安全だし見落とすこともないし、声もかけられるしいいですね。でも、停車中の電車の乗務員には、旅客の乗降を監視する仕事があるので、手を振り返すのが遅れてしまいがちですが、そこはご容赦ください。こちらが応えるまで少し待っていただけると助かります。
 保護者の方に伴われて手を振る場合は、たいへん安全で良いですね。
 ……保護者の方にお願いです。お子たちが乗務員にバイバイすると言われたら、めんどくさがらずに付き合ってあげてください。……乗務員の皆さんに厳命です。お子たちが手を振っていたら、満面の笑みと大きな動作で応えるべし。何を置いても、これが一番大事な仕事です。
 ある時、筆者が運転する電車の乗務員室に添乗してきた助役が、子供に手を振る筆者に忠言をたれるわけですよ、脇見運転がどうのってね。気が小さな筆者は上司に逆らうなんてこと殆どないのですが、この時ばかりは言いましたよ。寝言は布団の中で言え、安全運転のじゃまするなら降りろ。筆者の心はめっちゃブルーになっちまいました、安全運転に支障を来たすほどに。……出世欲ばかりで、血の通った仕事ができない職制に一言。死んでください。

子供たちにもっと手を振ろう

 親子連れの子供たちが、乗務員に手を振るために待ち構えている、そんな光景もよく目にします。電車から降りても立ち去らずに、乗務員の近くにとどまり、手を振る機会を伺っていたりします。乗務員は列車が停車中は旅客の乗降監視の仕事があるので、すぐには子供たちに対応できません。それを心得ているのか、静かに待っていてくださるケースがほとんどです。
 そして乗務員が乗降監視を終え、発車間際の列車から手を振ると、ひじょうに短い時間ではありますが、素敵なコミュニケーションが生まれます。「これからどこに行くんですか?」とか「気をつけてお帰りくださいね」なんて声をかけても、小さな子供たちは返事をせず、ただ笑って手を振り続けるだけです。彼らは乗務員への言葉なんて用意してませんから。それに言葉を交わす充分な時間もありません。
 筆者は可能な限り、大きく手を振り、なるべく声をかけるようにしています。するとその行為に笑い出す保護者の方がけっこういます。でもそれは大変好意的な笑いなので、筆者は大満足です。「よかったねぇ」とか子供に言っている声が遠ざかるホームから聞こえて来ます。
 保護者の中には、こちらが子供たちに手を振り返すと、お礼を言ってくれる方がけっこういます。なんていい人なんだろう、きっと子供たちも良い子に育つでしょう。
 さらに、これはひじょうに少ないケースですが、子供が乗降監視中の乗務員に向かって「車掌(または運転士)さん、ありがとう。お仕事頑張ってください」なんて言ってくれることがあります。少し離れたところで、保護者の方がこちらに軽く会釈されたり。お金を払って乗っているのに、乗務員に礼を言うなんて。その子は感謝の気持ちというものを親から教え込まれているのでしょう。「恐れ入ります。気をつけてお帰りください」思わず目頭が熱くなってしまいます。

 他にも、駅に隣接するビルから、踏み切りから、思いがけないところから子供たちは手を振って来ます。それらにももちろん応えなければなりません。でも、電車にだけ注目している子供は、乗務員にまで気づかないことも少なくありません。しくしく。
 あるいは、大きなお友だち……高校生くらい……が手を振ったり、敬礼をしたり、そんなこともあります。いちおう振り返しますけどね。女子高校生の集団などは、返礼するとキャーとか言ってはねます。ま、なんでも楽しむことは良いことです。ただ、敬礼は動きが小さいので見落とすことが多いです。やっぱ手を振っていただく方がいいです。
 ここで注意が必要なのですが、あまり大きな動作で激しく手を振ると、ホームに進入中の列車に対してそれは緊急停車を促す信号という意味が生じる場合があります。法規的にも停止手信号として明記されています。停止手信号を認めた運転士はただちに列車を停止させなければなりません。電車が非常ブレーキで止まったりすると、場合によっては警察の事情聴取ということになりますから、オーバーアクションにならないように手を振りましょうね。
 旅客と手を振り合う、それはたいへん小さな何の意味もない行為ですが、お互いに心が温まるひじょうに大きなコミュニケーションです。情報を伝達し合うだけがコミュニケーションではありません、機械じゃないんですから。人と人とが係わり合って暮らすって、そういうことなんじゃないかぁ、そんなふうに思うのですよ。

引き込み線の恐怖

 鉄道の駅の中には、プラットホームに接する通常の線路とは別に、引き込み線というのがある場合があります。駅のホームから少し離れたところに列車を収容できるだけの長さの線路が設けてあり、この引き込み線を利用して、列車は上り線から下り線に番線変更したり、庫外留置といって一字的に車両を留め置いたりします。
 電車によっては、終着駅まで運転せずに、途中駅で折り返すことがありますね。その電車は途中駅が終点になるので、旅客はそこで電車を降りなくてはなりません。
 ところが眠っていたり考え事をしていたり、ヘッドフォンプレイヤーで音楽を聴いていたりして、降りるのを忘れている旅客がいます。乗務員が気づけば降ろしてあげられるのですが、ダイヤ上すぐに電車を移動しなければならないことも多く、加えて長大編成になると、車掌と運転士だけでは目が行き届かないこともあります。
 降りそびれた旅客を乗せたままドアを閉め、転線(番線変更)するために電車が引き込み線に入ってしまうなんてことも、なきにしもあらずです。一般の旅客が、電車に乗って引き込み線に入るなんて、なかなか経験できないので、興味がある方は、乗務員から見つかりにくい長大編成の半ば辺りの車両で、こっそりとタヌキ寝入りでもしていると、運が良ければ未体験ゾーンに拉致られます。
 引き込み線に入った電車は、進入したところからポイントを渡って別の線路へと出て行くので、運転士と車掌は乗務位置を交代します。これまで先頭だった車両が最後尾になり、運転台が車掌室になるわけです。乗務員は電車の中を歩いて乗務位置交代するので、この時、引き込み線への進入を果たした旅客は、乗務員に見つかってしまいます。
 べつに叱られたりしませんよ、わざとです、なんて言わないかぎり。でも中には逆ギレする旅客もいます。自分が寝過ごしたことを棚に上げて、なぜ起こさなかった、仕事やる気あんのか、なんてね。だから、鉄道はセルフサービスなんですって。我々乗務員がもっとたくさんサービスしてあげたくても、鉄道会社も国土交通省もそんな考えはさらさらおまへんのです。
 ま、たいていの旅客は知らないところに来てしまった不安からか、すっかり恐縮されて、謝って来られるんですが、なんかとっても気の毒になってしまいます。こちらこそ気づかなくて申し訳ありませんでした、ホームに電車を戻すまで、こままお待ちください、と言うしかありません。
 ある時、途中駅で旅客を降ろした筆者は、誰もいない(はず)の電車を引き込み線に入れるべく、低速で電車を走らせていたんですね。なんか気分がよかったので、アニソン(アニメソングだね)とか歌いながら。筆者はオタクですから。
 そしたらいきなり、乗務員室のドアがけたたましく叩かれたんですね。女子高校生とおぼしきが、半泣きですっかりうろたえてて……。ま、拉致られたのが引き込み線で、拉致ったのが鉄道員だったから良かったものの、じゃなくって。
 電車を停止させてから、乗務員室を出た筆者に、彼女は悲愴な声で「すみません、寝過ごしてしまって」そんなに脅えなくても取って食やしませんて。というより聞いてました? 「はい、おジャ魔女カーニバルですよね。私は、はづきっち萌えです」相変わらずうろたえたまま、彼女は筆者の口ずさんでいたアニソンを見事に看破したのでした。
 うっわ、恥ずっ! 彼女が筆者の同類なのが唯一の救いのような、そうでないような。後日、彼女は家や学校で、キモい運転士が引き込み線で「おジャ魔女ドレミ」歌ってた、なんて吹聴して回ったことでしょう。
 次回は、車掌用マイクを使って絶唱してやる!

引き裂かれた家族

 始発駅の車内で列車の発車を待っているとき、車内がガランとしていると、なんだか貸し切りみたいな気分になって、家族でロングシートに向かい合わせに座ってみたり、よく見かける光景です。
 ロングシートというのは、通勤通学用を重視した都会型の電車によく見られるもので、列車の側面に沿って長いシートが配置され、それに沿って吊り革が天井からぶら下がっています。
 長距離列車のように2人掛けシートが列車の側面に対して垂直に並んでいる(バスなどもそうですね)場合は、背もたれを転換して対座シートを仕立てることができますが、ロングシートで向かい合わせに座ると、通路をはさみますから互いの距離は大きくなってしまいます。
 ロングシートと言えども、車両に乗務員室がある場合は、その分だけシートが短くなり、一部の座席だけ2〜3人掛けの短いものになります。乗務員室に隣接する座席は、通路をはさんで短いシートが向き合うことになり、これが家族や数人の仲間連れに人気があったりします。そのスペースを知り合いだけで独占できるからです。
 しかしながら、車内の混雑状況は刻々と変化するので、快適なコンパートメント状態は多くの場合長くは続きません。せっかく家族で歓談していたのに、いきなり学生の団体とかがワラワラ侵攻してきて、向かい合った座席と座席の間の通路を埋めてしまいます。始発駅を発車するとき、車内が空いていても2駅3駅と停車するうちに混雑して来ることはよくあることです。
 例えば、知人同士4人で向かい合って座ったとしましょう。突然の多客襲来で、4人の対座コミュニケーションが阻まれると、仕方ないのでとなり同士2人ずつの会話が始まります。これはまだ良いでしょう。
 3人だった場合、向こう岸の座席の1人は孤立してしまいます。2人だった場合、お互いに孤立してなんとも味気ない旅行になってしまいます。よくあるんですよね、男女の仲むつまじいカップルが、非情な客の群れに引き裂かれてしまうという状況。引き裂く方は、そんなこと全く存じ得ないわけですから、恋人同士の間にドヤドヤと人垣を作り、団体戦で会話を始めます。列車の騒音に負けないよう大きな声で。哀れな恋人同士はまるで生き別れです。
 家族連れで対座した場合。両親が並んで座り、子供たちだけが向こう岸のシートにってことが少なからずあります。やっぱ子供同士の方が楽しいのでしょうね。そしてそこへ通路を埋める人波の襲来です。子供たちの小さな体は、荒波の向こうへ消え去り影も形もありません。座席に反対座りになって窓の外を眺めていた子供たちの方も、背後の異変にきづいて振り返ると、そこには屈強な体育会系マッスルボーイの厚い壁が。……恐ろしいですね。
 こういう光景は多くの場合、乗務員室前で起こりますから、車掌はしばしば悲劇の目撃者になります。最初は空いていてもどの辺りから混んでくるのか把握している車掌は、もう間もなく悲劇が訪れると知りつつ、手をこまねいて見ているしかありません。大変つらいっす。
 もうすぐ混んでくるから、お子様と一緒に座られた方が良いですよ、なんて声をかけたこともありますよ。でもね、誤解されることが多いんですね、これが。こちらは親切のつもりで言ってるのに、言われた方は、もっと詰めて座れと指示されたように感じるんですね。気持ちを伝えるというのは難しいものです。
 人の波によって引き裂かれた家族が、目的の駅で下車するのがまた大変です。親は人波をかき分けて子供たちのところにたどり着き、靴を履かせたり、いろいろ世話をやかねばなりません。ちゃんと元の場所にいてくれれば良いですが、子供はじっとしていないこともあります。目的の駅が近づいてくるのに子供が見当たらない、まさか勝手に途中で降りてしまったのでは、考えるだけでぞっとしますね。

素晴らしい乗車マナー

 ある時、筆者が車掌をしていますと、若い夫婦が3人の子供を連れて電車に乗って来ました。始発駅で車内は空いていて、乗務員室前の短いシートは、その家族が独占です。夫婦が並んで座り、2人の子供たち(兄と妹)は通路をはさんで向かいのシートを占領しました。もう1人の子はベビーカーの中です。
 最年長のお兄ちゃんでも、まだ幼稚園くらいで、そのお兄ちゃんが大変お行儀が良いんですよ、両親はひじょうに派手な感じなのに。お母さんは茶髪で化粧が濃く、お父さんはよく陽に焼けていてやはり茶髪、金のネックレスとかしています。
 電車が動き出してしばらくすると、妹の方が歩き回り出しました。するとお父さんが、
「○ちゃん、ちゃんと座っておきなさい。ここは○ちゃんの車じゃないんだよ、みんなが乗る電車なんだよ」
 妹ちゃんは、コクリとうなずいて座席に戻りました。すごく教育が行き届いています。
 電車が何度か駅に停まるうちに、少し客が増えて来ましたが、その家族が占める座席の間の通路を埋めつくし、家族を分断してしまうほどではありませんでした。ところが、お父さんはスクッと立ち上がると、2人の子供たちを自分の座っていたところへ移動させ、ご自身はそのまま吊り革につかまって立ったままなのです。
 お父さんは、子供に厳しくするのみならず、自らも乗車マナーの手本を示したわけです。お母さんの方も、子供たちを放ったらかして携帯電話に夢中なんてことはなく、ずっと子供たちの話し相手をしていました。
 そのうち妹ちゃんの方は眠ってしまうと、お兄ちゃんは妹に肩を貸したまま、楽しそうに両親と話したり、ベビーカーの中の赤ちゃんにかまったりしていました。
 モンスターペアレントなんて言葉が出来て、最近の若い親たちがあれこれ批判されますが、それは一部の悪い例に過ぎません。このご両親を見ていてつくづくそう思いました。大勢の子供たちが、両親の温かい愛情に支えられて良い子に育てられています。マスコミのいい加減な情報に惑わされ、若い親たちを一概に悪く言うのは間違いです。
 その家族が目的の駅で降りるとき、筆者はありがとうの気持ちをタップリこめて子供たちに手を降りましたのです。

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