タイトル

■鉄道業の質の低下と企業の腐敗■

 最近の鉄道は、なんだか不便な乗り物になって来ましたね。科学技術が進んで列車は静かで高速になり、鉄道各社を通して利用できるプリペイカードやICカードが登場し、便利で快適な乗り物になったはずなのに、その一方で、ダイヤが煩雑で訳がわからなくなり、マナー向上と称して変なルールがいっぱいできたり、駅が無人化されてモノを尋ねることもできなくなったり。
 経費と人件費削減と称して、駅は無人化され、売店はなくなり、旅客が改札を通ってから初めて出会う係員と言えば、列車の先頭と最後尾にいる乗務員だけというありさまです。しかしながら、その一方で、助役や管区長といった職制は増強されました。職制の多くは名ばかり管理職で、現場係員を監督しながら乗務員をしたり、駅員をしたり、便利屋としてこき使われています。宿直勤務後のサービス残業にヘロヘロです。ヘロヘロで電車を運転して、しばしば失敗をやらかしています。
 我々の出世の道を閉ざさないために、職制のポジションをたくさん設けてくださったのだそうです。ありがたいことですね。でも、頻繁に行なわれる人事制度の改定によって昇級の凍結や事実上の降格、手当ての削減、ボーナスカットばかり続いているんですけど。
 鉄道に限ったことではないのでしょうが、長く生きてきた多くの大手企業で、様々なひずみや腐敗が進んでいます。これはある意味必然的なもので、世の中の変化と共に企業の体質やバランスのあらゆるものが、狂ってきます。弊害は着実に蓄積されてゆき、ついつい臭い物にはフタをしてしまいがちになり、気づけば収拾が難しい状況になってしまうのです。
 それを是正するために改訂や改革が必要であり、あるいは株式システムや労働運動という浄化作用がなくてはならないのですが、昨今の株式事情はご承知の通り企業に対する営利的圧力でしかなくなり、労働運動もすっかり冷えきってしまっています。これでは良質な商品の生産が上手くゆくはずがない、そうは思いませんか?
 鉄道会社はまた、鉄道業では大きく儲けられない、そう考えています。鉄道業は適当にしてもっと多角的な事業展開によって業績を上げてゆかねばならないと。数字の面だけ見れば、鉄道部門の業績というのはむかしほど目ざましい上昇グラフを描くことはなくなっています。しかし鉄道業をおろそかにして、他の部門、不動産やデパート等の活性化はあり得ません。鉄道を背骨とした他部門の事業展開、これを忘れてはならないのです。会社の思惑はどうであれ、鉄道会社は鉄道という業種によって世間の認知度と信頼性を上げています。その顧客の感情をおろそかにし、投資家への配慮ばかりを優先した結果が、わけのわからない商品展開つまり鉄道業の質の悪化となっているわけです。
 鉄道業は、公共交通機関です。地域社会の福祉の増強を本分としている性質上、派手な商品展開や宣伝活動による顧客の誘致に汗を流さなくても、旅客は来てくれます。そのことをもっと尊重し、地道に顧客のニーズに応えようとする姿勢が必要なのではないでしょうか? そして株主ばかりではなくて、旅客の声にもっと耳を傾けることによって、鉄道の新たな可能性も見えてくるはずです。経営者や株主よりも旅客と現場係員の方が、鉄道の可能性について知っていることに、彼らは気づくべきなのです。

鉄道会社の現状

 都市交通としての電車の役割は、主に通勤通学用の足であり、旅行や行楽の手段と考えられることはあまりありません。そして通勤通学のための利用客は、昭和の時代から比べると大幅に減少しました。自動車通勤の増加や通信ネットワークを用いた在宅勤務の増加、少子化に伴う通学客の減少。沿線の宅地化が充分に進み、これ以上の沿線人工増が見込めなくなったことも、鉄道会社の経営者にとっては憂うべき事態でしょう。
 最近はあまり耳にしませんが、一頃は鉄道業を斜陽企業とか呼ぶのをマスメディア等でよく目にしました。鉄道会社の経営者も鉄道業に力を注ぐのがだんだんイヤになり、多角的な事業展開によって何とか右肩上がりの業績を維持しようとしました。ショッピングや不動産、ホテル経営等に尽力し、電鉄本来のイメージすら脱ぎ捨てようとしました。
 ところが、鉄道以外の事業も事情は大して変わらず、経営者の思惑どおりの収益を得ることはなかなかかなわなかったんですね。その理屈はいたって簡単で、大企業をさらに食い太らせるほどの余力が日本の国土自体になかったのです。すでに飽和状態の土地からさらなる収穫を得ようというのは、魔法遣いにしかできない曲芸です。
 IT関連や映像文化等は、電脳世界という魔法を使って曲芸を実現し、生産会社は多国籍企業と称して国を見限り外国での儲けを企てたのですが、電鉄会社にはそういったノウハウも柔軟性もありませんでした。なにせお堅い企業ですから。
 それでも企業は右肩上がりの業績という幻に固執したがるもので、安全も人的資産も投げ出して合流化景気という無理矢理な上昇グラフを描き出し、さらには会社の分社化や統合を繰り返してごまかしの黒字会計を捻出し、何とかして株価を維持しようとし続けました。
 今や多くの企業が投資家に儲けさせること以外には何も考えていない状態で、鉄道会社はその最先端をひた走っています。人的資産というレベルで見ると、企業の内部はボロボロで、安全やサービスの提供に携わる人員は充分ではなく、残り少ないスタッフの多くがアルバイトや下請け会社の派遣社員や、労基法を無視した契約社員です。
 その反面、現場のスタッフを監視したり、上述したようなごまかし黒字会計を担うスタッフの割合は増えつつあります。生産性という点ではあまりよろしくない事務員ばかりが多くなり、充分な高給を頂いているのも事務職の社員です。
 いったい何をやってるんだか、と思ってしまいますが、日本の多くの大企業が同じような感じでしょ?

 今の日本経済は、多くの企業が出口の見えない迷路でもがいている状況で、投資家が企業から搾取を続けているわけです。株式会社なんですから、この関係は正当なのですが、ここから脱却して、企業を支えているのが生産性にちょくせつ寄与している労働者であり、お客様であるという基本を思い出さない限り出口は見つけられません。
 単純な話し労働者が富まなければ、企業が生産してもそれを買う人がいない。一握りの資産家だけがどんなに散財したところで、消費は思うように伸びませんからね。
 そこで、労働運動が必要になってくるわけです。今の労働者は統一行動の力、団体交渉の力を見くびり過ぎています。大企業相手に自分たちが無力であると思い込んでいることこそが、じつは日本経済の致命傷なのです。
 経済を活性化させるには、大衆に対して金をばらまく、これは江戸時代からの常識です。経済はそれほど単純なものではありませんが、複雑に捉え過ぎて基本を見失っていては何も始まりません。
 鉄道労働者は、かつて"国民春闘"と銘打って電車を止めてでも企業と闘いました。その闘いは単組レベルでは自分たちの要求の主張ですが、それを以て世に労働者の強さ、働く者の力を示し、全国の労働者に運動の必要性を喚起しました。だから"国民春闘"なのです。さらには地域への福祉の増強や雇用のk確保も要求したのです。できたのです。
 むかしの話しだと思うかもしれませんが、基本は今も変わっていないし、働く者の賃金や労働条件は、企業がくれるものではなく、闘って勝ち取るものというのも変わっていません。
 社会は一握りの資産家と政治家が造るものではなく、働く者が創るものなのです。遠いむかしから時代の最先端に立っているのは我々なのです。

上司が仕事のじゃまをする

 夕方以降から夜間あるいは雨天で視界が暗くなると、運転士は電車の運転にバックスクリーンを使います。鉄道会社によってブラインドとか遮影幕とか言い方はいろいろですが、要するに乗務員室と客室を仕切る扉の窓を幕で覆い、客室の照明が乗務員室に入って来なくするものです。車内が明るいのに対して車外が暗くなると、フロントガラスに車内が映り込んで視界が妨げられ、それを防ぐために用いるわけです。
 バックスクリーンを使用すると、当然のことながら客室から乗務員室が見えなくなり、フロントガラス越しの前方の景色も客室からは見えません。電車の先頭に乗車して前方の景色を楽しみたいという旅客にとってはそれを妨げられるわけですが、車内より車外が暗くなると、フロントガラスと同様に客室と乗務員室を仕切る扉の窓にも映り込みが生じ、運転士がバックスクリーンを使わなくても前方の景色は見えにくくなります。
 しかしながら、まだ充分に明るいのにバックスクリーンを降ろしている、といった苦情が時おり駅などに寄せられます。
 車外の明るさは走行中刻々と変化します。様々な地形や建造物の間を走っているわけですから。夕闇が近づく時間帯のバックスクリーンの使用は安全運転にとって重要なのです。
 それなのに、最近の職制は旅客の苦情をそのまま運転士に伝え、バックスクリーンの使用を控えさせようとします。現場の職制のほとんどが運転経験者なのですが、現職を離れると安全運転について忘れてしまうようです。
 苦情旅客にしても、適切な説明を受ければ納得できるし、むしろ謝罪や言い訳よりも説明を聞きたいはずですが。

 同じバックスクリーンの件で、終着駅に着いて電車の前と後ろが反転すると、車掌が車外の明るさを配慮してあらかじめバックスクリーンを降ろしておくという習慣が乗務員にはあります。終着駅での折り返し時間がひじょうに少ないダイヤでは、運転士にとってはたいへん助かります。出発準備の手順が1つ減るわけですから。それと旅客への配慮としても有効なのです。バックスクリーンは窓が3枚ある場合、運転士の後ろと中央の窓に対して使い、あとの1枚は開けておきます。運転に支障ないからです。で、あらかじめバックスクリーンが降りていれば前の景色を見たい人は開いている窓のところの席に着けば良いわけです。
 バックスクリーンが降ろされておらず、運転台の後ろの席に小さなお子様が座っていたりすると、ひじょうに悲しくなります。車掌が幕を降ろしておきさえすれば、その子は開いている窓のところの席を選んだはずです。運転士は心を痛めながら子供の目の前の幕を降ろします。
 車掌によるこの協力体制は数十年の歴史の中で乗務員の間で培われた文化なのですが、最近の若い車掌はこれを実施しません。上司に叱られるからです。運転士の仕事を車掌が手伝うなというわけですね。
 長い歴史の間続けられてきた協力体制をどうして禁じるのかと尋ねると、上司は安全のためには余計なことをしない方が良いと、曖昧な答えを述べ、具体的な説明はしません。黙って従え、オレが上司だ、というわけです。なんて無能なのでしょう。

 創業100年が当たり前の、関西の長い私鉄の歴史の中で、これほど上司が無能ぶりを発揮し続ける状況はかつてありませんでした。こうした上司の質の低下を招いたのは、言うまでもなく会社の腐敗です。長く生きながらえた企業が上層部から腐敗して行くのは、ある種の必然性で、それは矛盾や不当となって現場にも垂れ流れて来ます。そしてそれを指摘する現場職員を、企業は人事権を傘に脅しつけるわけです。
 旅客の苦情は上層部に上げない。不条理な指示や命令に黙ってしたがう、そうした悪しき体質の常識化が、無能な上司を育て、上司が現場の文化を否定し、仕事を妨げ、安全をも脅かすことになってしまうわけです。
 JR福知山線の脱線事故以降、上司による現場への不当な圧力が、安全運転を脅かす事実が指摘され、社会問題にもなりましたが、鉄道会社の体質は何も変わっていません。

上司がウソをつく

 乗務員がミスをすると、上司はそれを厳しくとがめ、ミスが発生したことを乗務全職場に流します。翌日には、職場にポスターが貼り出され、たいへん重大な事故が発生したと公布します。そしてミスをした本人は職場から隔離され、"教育"と称して何日も下車勤務を強いられ、多くの場合しばらくすると除籍され職場からいなくなります。
 列車の運行を担当するのは、乗務員以外にも乗務助役という監督職の立場の運転士であったり、乗務員出身の助役であったりすることがあります。度重なる合理化で人員不足を補うために監督職が臨時に乗務に就くことはよくあることです。
 そして、助役や乗務助役がミスをすると、彼らはそれを隠匿しようとします。例えば、列車がオーバーランした場合でも、旅客がら苦情がなく、車掌の口を封じれば、しばらくの間はミスを隠蔽することができるというわけです。
 ウソはあとになってばれることもありますが、その際は異議を唱える乗務員にだけ形ばかりの謝罪をするか、居直りで切り抜けます。助役や乗務助役がミスのペナルティを受けることはあまりなく、職場から去ることもほとんどありません。
 どうしてこのような虚偽が横行するのでしょうか。いつからこんな風になってしまったのでしょうか。乗務員出身の監督職もかつては列車に乗務していたわけで、彼らが現職の頃は、ミスに対して責任を負うことは少なく、せいぜい報告書を提出するていどでした。乗務員時代に2度3度とミスを繰り返している助役は少なくなく、むしろミスしたことがない助役の方が少ないのですが、それは棚上げし、今現在現職の乗務員のミスは徹底的に追究するのです。そして監督職仲間のミスはのうのうと隠蔽する。
 監督職によるミスは、オーバーラン等の臨時に乗務した時だけに限りません。列車の増結や分離の手順を誤ったり、転てつ機の操作を誤ったり、非常事態に手動扱いの踏切で列車が接近しているのに遮断桿を上げてしまったり。運転指令の指示誤りでダイヤ乱れを拡大することもよくあります。乗務員以外のこれらのミスは、複数の係員が手順を確認しながら行なうのですが、それでもミスします。
 そして監督職によるこれらのミスは隠蔽されます。隠蔽しきれなければ、情報が拡大しないような工作が施されます。
 ある時、乗務助役の運転する列車がオーバーランをし、情報がリアルタイムで拡がってしまったことがありました。それに対し現場の幹部管理職は、列車の故障と公表し、車両交換の処置を執りました。車両交換はどこでもすぐに行なえるわけではないので、交換可能な駅まで列車は運転を続け、その間列車は旅客を乗せたま運転を続けました。
 この一件で恐ろしのは、故障を疑われている列車に旅客を乗せたまま通常運転を続けたということです。故障でオーバーランしたのが事実なら、故障箇所はブレーキです。旅客はブレーキ故障の疑いのある列車に乗せられていたわけです。本当にブレーキが故障した場合、今の幹部監督職は直ちに旅客扱いの中止を指示できるのでしょうか。また、運転士がブレーキ故障による旅客扱い中止を要請しても、そのまま車両交換まで通常運転を指示するようなことはないのでしょうか。
 職場では、この件がいつものウソでありブレーキが故障しているわけではなと分かっていたので、あまり騒ぎになりませんでした。イソップの「狼と少年」の状態です。職場にも安全意識の低下が蔓延してしまっているわけです。
 そして騒ぎが大きくならなかったために、同じウソは何度か行使され、ブレーキ故障と称される列車が旅客を乗せて走りました。ひどいものですね。

 ここまでして監督職を擁護し、乗務員を目のかたきにするのは、安全よりも利益優先の、つまり目先の利潤だけを追求し、将来性について何も考えない無能な労務政策がまかり通っているからなのです。
 人件費削減の名のもとに、せっかく育成した乗務員を追放してしまう、幼稚で非生産的な政策です。何かミスをしたら配転してやろう、会社はそれをてぐすね引いて待っているわけで、現場の監督職は安全に関する問題点を知りながら、保身のために悪しき労務政策に荷担し続けるのです。
 会社は、鉄道の安全と会社の未来を脅かす愚かな労務政策を続けるために多大な監督職を起用し、けっきょくそれに人件費を費やしています。生産性の低い職員ばかり増やし、輸送の安全と接客に直接携わる係員は削減し続ける、なんだか空しくなります。

信頼関係の不在

 会社や上司が我々乗務員を陥れようとする職場に上下間の信頼関係などあるはずもなく、両者の関係は殺伐としています。とくに若い乗務員は、ワナにはまって将来を棒に振るようなことがないよう、上司の顔色を伺い、言葉を選んで話します。
 現場で我々と一緒に仕事してる助役たちは比較的人当たりも良く、乗務員とも笑顔で接することが多いのですが、現場に顔を出すことの少ない、係長・課長レベルの人間になると、乗務員に対して笑顔を向けることは少なく、話しを聞く姿勢もありません。言葉は上から下へ下ろすもの、彼らの中ではそう決まっているようです。
 ある時、筆者の運転する列車の運転台にたまたま添乗してきた課長に業務上の質問をしたところ、後日複数の係長クラスに取り囲まれ、不遜な行ないを中傷されました。
 そのような状態ですから、たとえば悩み事の相談などもってのほかです。上司に仕事上の、あるいは私生活の悩みなど話そうものなら、それは乗務員生活の危機に直結します。悩み事があるような人間に乗務は危なくてさせられないというわけです。
 上司には本音を話さない、それが乗務員として生き残るための鉄則です。
 労働組合や、社員の人権を擁護するためのコンプライアンス窓口も個人を救う機能はまったくありません。看板を上げているだけで、正規の仕事はしないのです。労働組合の役員はすべて会社が選定しますし、コンプライアンスシステムを牛耳るのも会社です。労働組合は多くの場合、現場職員のあら捜しをしてそれを上司に密告する秘密警察の役割をします。
 上下関係とは、信頼関係ではなく脅迫関係である、それが鉄道会社の実態なのです。
 この傾向がどんどん悪化しつつある職場では、考えられないようなミスが続発しています。出発監視中の車掌が列車から飛び降りてしまう、途中から別の列車に乗り換えてしまう……。JR福知山での脱線事故でも、目の前にカーブが迫っているのにブレーキ操作が遅れてしまうというミスが起きたわけですが、運転士の気持ちに余裕があれば、そんなに注意していなくても自然に手がブレーキを操作していたでしょう。車を運転していても目の前にカーブがあれば手が勝手にハンドルを操作するでしょ? 鉄道の現場に上下の脅迫関係がなければ、普通に考えてありえないようなミスは起きないはずです。
 鉄道の現場は、重大事故がいつ起きてもおかしくないという危機的状況に、依然としておかれたままですし、むしろ悪化しつつあります。

安全に対する責任

 公共交通機関を運営する企業は、旅客の生命財産の安全を守る義務があります。これは企業の営利よりも優先されなければならず、企業に利益がもたらされるためには、まず安全が保たれることが絶対条件になります。当たり前のことですね。交通機関でなくても、製造会社でも食品会社でも、製品の品質が安全を脅かすようなことは絶対にあってはなりません。
 これまで日本の企業における安全と衛生はひじょうに高い水準で維持され、諸外国からも信頼されて来ました。ところが、食の安全や、公共交通機関の安全神話は、過去の幻となろうとしています。
 JALの旅客機が墜落し、JRの列車が脱線し多くの犠牲者を出し、その破壊と犠牲の規模は、世界的に見ても極めて大きなものでした。そして事故の背景には、企業の安全を顧みない営利至上主義の存在がありました。
 これまでも交通機関というものは事故と無縁ではありませんでしたが、事故が起きる度にその原因が調査され、事故原因が究明されて、安全維持のためのノウハウとして蓄積されて来たのです。ですから、安全保安システムも人的な安全水準も歴史と共に向上して来ました。
 ところが、最近の企業は利益のためには安全を犠牲にしてもかまわないと考えているようです。安全を維持するために必要な人件費を削って、それを投資家に対する配当や企業景気維持に回す、会社を維持するためにはそうするしかない、そう考えているのです。

 国もまったく同じ姿勢で、企業に対する安全の責任は追求しません。企業の不正や不当な雇用状況については見て見ぬふりをし、安全保安システムの充実や職員に対する教育の徹底のみを指導します。
 安全保安システムつまりATSだとか踏切安全装置といった機械にお金をかけることは、企業は拒みません。企業間でお金を使い合うことは、企業景気維持に欠かせないことで、そのためには銀行から多額の借金をします。銀行は企業にお金を貸し続けることで経営を維持しています。投資家に株券を発行しそれに対して配当し続けるのも同じことですね。

 企業はこのように、システムの充実ということで安全の責任を果たしているので、あとは現場の責任、そこで働く従業員の責任、ご立派な装置を着けて作業の安全をバックアップし、労力を軽減してやっているのにミスをすることは許さん、というわけです。
 ですから、旅客が怪我をすれば乗務員を罰する、怪我をしなくても"ひやり"とするようなことがあれば乗務員を罰する。それで企業は安全に対する責任をとったことになります。何かあったら乗務員を脅しつける、脅しつけると心の余裕をなくしてまたミスをする。また脅す。自信をなくした乗務員は、監督職の説得に応じて職場を退く。欠員はアルバイトで補い、浮いた人件費でまた企業景気維持にお金が使えるというわけです。
 国土交通省は、JR福知山線の脱線事故以降、乗務員のミスをそそるような過剰な指導やペナルティを課すことは止めなさいと口では言っていますが、企業の実態を把握しようとはしませんし、乗務員がどんどん辞めさせられて、1人当たりの運転距離が大きくなることについては問題なしという態度です。削減された人員がさらにアルバイトに置き換えられることもOKです。
 国は、乗務員に対する圧力は良くないと言いながら、視力検査をより厳しくしろ、飲酒検査を徹底しろ、居眠り防止のため無呼吸症候群を見つけ出し治療を義務づけろと、乗務員に対する圧力を強化しています。
 筆者は酒を飲まないので、飲む人の事情を推し量るのは難しいのですが、合理化に次ぐ合理化で勤務時間が長くなると、酔いを覚ます時間もない、そんなことを聞いたことがあります。
 あるいは、無呼吸症候群と診断されない多くの乗務員が、乗務中に激しい睡魔に襲われています。勤務の長時間化で緊張を維持することがどんどん難しくなるからです。無呼吸症候群の診断を受け、毎月治療費を負担させられている乗務員も治療効果を実感している人は多くありません。治療効果があっても、乗務時間が長時間に及べば睡魔は訪れます、スーパーマンじゃないのですから。

 安全保安装置さえ付ければ企業は安全に対する責任を果たしたことになる。JR福知山線の脱線事故でも、事故現場に列車の速度を抑制する装置を取り付けてそれでおおむね問題は解決されました。人的ミスを誘発するような乗務員への圧力や、過労を強いる雇用形態についてはほとんど指摘されず、時間と共に世論が風化してゆくのを待っている状況です。
 風化を待つと同時に、適性検査の強化等で個人の資質の追求を強化し、個人の責任追及を強化し、不適格者を排除して行き、それで安全向上に努めていると豪語しているわけです。
 不適格者の排除とはすなわち、会社にとって煙たい人員の排除であり、労働運動の無力化であります。そして欠員を補うのは、経験浅薄で立場の弱いアルバイト職員、あるいは監督職の名目をいただいた乗務助役いわゆる世間で言うところの名ばかり管理職というわけです。
 過去から連綿と続いて来た、安全を守るための文化は、寸断された人間関係によって潰えようとしています。

煩雑で不便なダイヤ

 最近の鉄道はどこも、ひじょうに複雑なダイヤとたくさんの種別(急行とか特急とか)で、訳がわからなくなってしまいました。簡単明瞭で快適に利用できる便利な乗り物とはほど遠い、不便な乗り物になってしまいました。始端から終端まで40〜50キロていどのローカルエリアに、急行や快速、準急、特急、快速特急、区間普通なんかがひしめき合い、互いに運行を妨げ合っている状況です。ローカルエリア内で2度3度と乗り換えなければならなかったり、終端に近づくと急行が普通の後を追ってノロノロ運転になってしまったり、何が何やら意味がわかりません。
 今の鉄道会社は机の上で路線図を上から見下ろすだけでダイヤを引き、旅客の便宜などまったく考えていないかのようです。
 たくさんの荷物を抱えて、あるいは健康上の問題を抱えて、子供を連れて、何度も乗り換えねばならない苦労など、鉄道の経営者は意に介しません。区間普通じゃなくて、全線完走する普通があれば、時間がかかっても乗り換えの労なしで旅行できるのですが、そんな優しさは今のダイヤにはありません。
 種別があまりにも多いので、普通を追い越した準急は特急に抜かれ、特急は快速特急に抜かれ、それぞれ運行を妨げ合い時間がかかってしまうことになります。せめて準急がなければ、普通は準急並みの所要時間で走れるのに、通過待ちや連絡を繰り返して遅々として進めません。
 終端駅近くの区間では、普通車の駅停車を後続の急行が信号待ちしてるといったありさまです。全線を通じて見れば急行の方が普通より数分速いのですが、区間によっては普通の方が速くなっています。
 車掌や駅のアナウンスで、○○駅へは次の準急が先着です、といったアナウンスが流れていますが、その差はせいぜい2分ていどです。準急さえなければ、普通が準急以上に速く走れます。
 そうまでして、たくさんの種別を走らせる意味が、鉄道員歴○十年の筆者にも解りません。
 錯綜する複雑なダイヤのせいで、終端付近では自然渋滞が生じるので、今のダイヤはひじょうに電気代がかかります。ブレーキと起動の繰り返しで、惰性運転が少ないですから。しかし輸送力は向上していない。本当にこれがプロの組んだダイヤなのかと疑いたくなります。
 我々乗務員が抗議しても、旅客が意見しても経営者には何も伝わりません。現場や意見窓口は経営批判は極力トップの耳に入れないように頑張っています。でないと成績が下がるのは自分たちですから。
 ダイヤの複雑さはさらに大変で、時間帯によって走る種別が大幅に変わります。曜日によっても変わります。むかしのダイヤでも、通勤時間帯には専用の種別(通勤特急など)が追加されるといった時間帯による変更はありましたが、あくまで追加でした。しかし最近のダイヤでは、ラッシュ時には急行が走るが閑散時にはこれがなくなって快速が走るといった変更が起ります。急行と快速とどうちがうのか、始端から終端までを通してみると、じゃっかんの停車駅のちがいが見られるのですが、旅客の多くは一定の区間しか旅行しません。その人たちにとっては、ちがいが判らないし変更の意味も解りません。目的地に行くのに何に乗れば良いのか尋ねようにも、駅員の姿が見えません。駅にあるのは無言の自動改札と券売機、それに何も知らない販売斡旋アルバイトだけです。
 なぜこんな煩雑で、電車同士の渋滞を招き、電気代のかかるダイヤを作るのか? 経営者の能力を疑います。まるで鉄道マニアがたくさんの種別が絶妙に連絡し合う状況を楽しんでいるかのようです。経営は遊びではないのです。この電車ごっこのおかげで、旅客は快適な旅行を阻害され、係員は正確な案内に苦慮しています。また沿線周辺の地域では、電車のノロノロ運転のため踏切がなかなか開かないという交通阻害が発生しています。
 このようなダイヤに、旅客はなんのメリットがあるのかと、たまたま運転台に添乗してきた会社のトップクラスに尋ねたことがあります。えらいさんは、競合他社の旅客の誘致だとか何だかと意味不明なことをモゴモゴ言うだけでした。そんな企業の都合じゃなくて旅客の利便性について尋ねたのに……。で、あとから助役様にトップに口を利いたことをしっかり説教されましたとさ。

携帯電話の規制による旅客の苦痛

 電車の中での旅客による携帯電話の使用を、ほとんどの鉄道会社が制限しています。どうしてなのでしょう? この規制は多くの矛盾を抱えており、まったくもって無意味です。携帯電話というものが、希少なアイテムであった頃ならともかく、今では持っていない人の方が少数派でしょう。携帯電話を常用している人が、他の人の使用を不快に思うのでしょうか。また、携帯電話が仕事の必需品という人も少なくないわけで、その人たちにとっては、電車で移動中の使用の制限は仕事への妨害にほかなりません。
 電車の中での携帯電話使用の制限で最も多い例は、通話の禁止と優先座席付近での電源オフでしょう。通話の禁止は、それが周囲の人に不快感を与えるからです。優先座席付近での電源オフは、携帯電話が発する微弱電波が、心臓ペースメーカーを使用している人の機器への悪影響を防ぐためということです。
 この2つの制限の起源は、いずれも携帯電話の普及率が極めて低い頃のもので、混雑した車内で、目と鼻の先で通話されるのを苦痛に感じる旅客からの苦情が多かったためと、医療機関が医療機器への悪影響を指摘したからです。そして携帯電話の普及率が格段に向上した現在、これらの規制はむしろ旅客に対する理不尽なルールにしか過ぎず、規制を訴える車掌のアナウンスの方がむしろ苦痛になってきています。
 携帯電話での大っぴらな通話が、周囲の旅客に不快感を与えるという事実については、今ではほとんどの旅客が理解しています。それでも仕事や急用などで通話の必要性を感じた人は少なくないでしょう。手で、携帯と耳を覆い、小声で通話をしている旅客をたまに見かけますが、筆者にはたいへんマナーの良い旅客だと感じられ好感がもてます。もしこの行為が、周りに不快感を与えるのだとしたら、それはルールがあるからです。通話が禁止されている車内で通話しているということが周りにとって不快なのです。このルールが、通話は周囲へ配慮して小声で手短にお願いします、というものだったらどうでしょう。周囲の感情は変わってくると思います。
 携帯電話の通話は、今では街中で普通に見かける光景であり、決して奇異な行為には見えません。車内でそれを不快に感じてしまうのは、ルール違反であるからです。ルール自体が不快感をあおっているわけです。携帯での通話よりも、団体旅客が騒いでいたり、酔っぱらいのオヤジがうなっていたりする方が百倍苦痛じゃありませんか? むしろそちらの方を規制するべきです。携帯電話の通話は前面解放しますと宣言しろとは言いませんが、周囲への配慮をして通話しろくらいに変更すべきじゃないでしょうか。
 そして優先座席付近での電源オフ。これを守っている人は果たしているのでしょうか。優先座席付近でメール等の使用を自粛している人は多いでしょうが、本当に電源を切っていますか? ルールは使用の禁止ではありません、電源そのものを切れと言っているのです。電源のオンオフについては、携帯電話をマナーモードにして隠し持っていれば誰にも気づかれません。みなさんそうしているだけでしょう? それなのに医療機器の不具合を訴える人は見たことがありません。それに、心臓ペースメーカー等は車内の座席に座っている時だけ動作させればよいというものではなく、24時間働いています。医療機器を使用している旅客がホームを歩いている時、並んで電車を待っている時も機器は動作しているのです。周囲では携帯電話による通話やメール操作が盛んに行なわれています。これで大丈夫なのですか? 医療機器を使用している方への配慮は無用と言っているのではありません。でも、配慮が必要なら街中での携帯電話の使用をすべて禁止し電源を切るように規制しなければ、電車の中のルールだけではまったく意味がありません。それ以前に、すさまじい電磁波を発している電車のモーターを止めるべきです。

 一部の鉄道会社では、携帯電話電源オフ車両なるものを設けていますが、その会社だけがそのようなルールをして何の意味があるのでしょう? 自社は立派だという自己PRですか? それで優秀と評価されると本気で思っているのでしょうか。甘ったれるのもいい加減にしてほしいですね。電源オフ車両では、乗り合わせた人が全員電源を切らなければなりません。誰も切ってなんかいません。たまたまルールを知らずに乗車した人が、メール等をしていると、車掌が注意します。その人は大変にマナーの良い人で、通話はダメだからメールで用事を済ませようとしていたのですが、たまたまルールを知らなかったせいで車掌に叱られるという屈辱を受けることになります。もっとひどい例では、横柄な他の旅客が「携帯使うな!」などと罵声を浴びせてきます。ルール違反を目撃すると腹が立つのは解ります。しかしいきなり罵声を浴びせることの方がマナー違反です。正しいからといって偉そうに言うことはありません。それで済めば良いですが、口論になって、最悪傷害事件に発展することすら少なくありません。
 電源オフ車両などというルールを設けている鉄道会社の助役にいろいろ尋ねたことがあります。このルールのおかげで、車内での口論や傷害事件、所持品の損壊事件が後を絶たないそうです。旅客からルールの廃止を訴える声も毎日のようにあるそうです。そこまで旅客を苦しめて規制を続ける理由はと尋ねると、会社の説明では、優先座席付近と規制といったいい加減なルールよりも、専用車両を設けるというきちんとしたルールの方が望ましいからだそうです。ルールの徹底を図りたいならその車両への持ち物検査をしなくてはなりません。駅のホームにも医療機器使用者専用の通路を設けるべきでしょう。また、専用車両を設定した場合、医療機器使用者はその車両まで向かわなくてはならず、その移動中は誰も守ってはくれません。せめて各車両に優先座席があってそこが電源オフになってくれていれば、移動距離は小さくて済みます。つまり電源オフ車両などというルールほどいい加減なものはないということです。
 大阪地下鉄などでは、線区によってルールが変わります。旅客がマナーを守ろうと思うなら、あなたが善良な旅客でありたいなら、念入りな学習が必要です。きちんと勉強してからでないと満足に電車にも乗れないのです。改札も出ていないのに、同じ電鉄内で乗り換えただけなのにルールが変わってしまうのです。あなたはそれらをちゃんと勉強して覚えていますか? このような無茶苦茶な煩雑ルールの理由を筆者は知っています。地下鉄だけが悪いわけじゃありません。しかしそれをここでイチイチ説明しません。旅客にとってはそんな理由知ったこっちゃないのです。ただ、目の前にデタラメなルールが存在するというだけです。

 自動車は有害な排気ガスを大量に吐き出します。しかしその普及率と利便性、経済効果を考えると、自動車の廃止はできません。携帯電話も同じです。これだけ普及した現在、その利便性を妨げるバカな規制を続けるのは、鉄道会社の甘ったれた横暴以外のなにものもでもありません。現場の乗務員や助役、そして何よりも大勢の旅客がルールに苦しんでいます。しかしその声に耳を傾けられるほど、今の経営者たちは有能ではないのです。ボンボンたちにももう少し世間勉強というものをしてもらいたいものです。

パワハラ−虚偽と恫喝−

 パワーハラスメントいわゆる、上司が優位な立場を利用して部下に対していやがらせや不当な圧力をかけることですが、鉄道会社では、乗務員の失敗等を理由に上司が圧力をかけて、自ら配置転換を希望するよう仕向けるといった不当な取り扱いがかなり横行しています。各鉄道会社は、監督省庁の指導でコンプライアンスプログラムを設けており、パワハラに対応することになっていますが、事実上このプログラムは機能していません。
 最近の鉄道会社は、人件費削減の目的で乗務員の配置転換を急速に進めています。しっかりした意見を持つ者、旅客のことを真剣に考えている者、純粋な目的意識で後輩育成に尽力する者。これら乗務員としての正しい資質を持つ者は、会社の労務政策の敵です。本来、輸送の安全になくてはならない人員こそが、会社が最もリストラしたい対象なのです。
 この歪んだ理念によって、現在、多くの鉄道会社で、乗務員の空洞化が進んでいます。職場が培って来たノウハウを先輩から後輩へ伝えるという、企業の中で最重要事項である人材育成が、人員の空洞化によって大きく疎外されているのです。
 乗務員は業務知識及び適性を評価されて車掌や運転士の資格を得るわけで、一度取得した資格は、心身の疲弊や重大事故を起こすなどしなければ失われません。他の業種のように会社が一方的に配置転換することが、ひじょうにやりにくい業種なのです。毎年の人事移動にびくびくしながら安全なんて維持できませんからね。
 そこで会社は乗務員がミスをすると、それに付け込んで不当な圧力をかけ、仕事に自信がもてなくなるように心理的に追い込み、自ら配置転換を願い出るように仕向けるのです。
 筆者の職場でも、この労務政策によって多くの乗務員が職場を去り、職場にとって最も力となる中堅クラスの人員が激減してしまいました。こんなことでは、いつか必ず大きな事故が起きる、常識ある社員はみんなそう感じています。
 会社は、乗務員の弱みを握ると、日勤教育などの処置をとり、隔離して孤立させ、複数の上司が取り囲んで、虚偽と恫喝を繰り返します。虚偽とはウソ、恫喝とは怒鳴りつけることです。このような不当な人権侵害を受けた経験のある社員は、冤罪なのに犯行を自供してしまう容疑者の気持ちが解るでしょう。屈辱的で精神的苦痛の大きな状況から逃れたい一心で、上司の言い分を認め、自ら配置転換を希望することを余儀なくされるのです。

 多くの鉄道会社で、とくに歴史のある大手において、虚偽と恫喝が横行し乗務員の空洞化が深刻になっています。会社は人間の力など必要ない、マニュアルと保安設備があれば安全は守れると考えています。しかしマニュアル通りの事故なんてほとんどありませんし、保安装置には故障が付き物です。それをカバーできるのは、人間と経験の蓄積にほかなりません。
 職務に忠実で、不正に対してノーと言える乗務員の多くが、会社の圧力に苦しんでいます。しかし、公共交通機関の安全を考えるなら、そうした圧力に屈しないで下さい。職場仲間が横のつながりを強く持って、パワハラを跳ね返して下さい。絶対にひとりで戦ってはだめです。どんなに強く優秀な人でもひとりの力には限界があります。
 日本経済の行き詰まりと共に、企業が正しい判断と行動ができなくなってしまっている現在、真に鉄道の安全を守れるのは、職場仲間の友情の力なのです。

企業内格差

 鉄道におけるサービスというのは、基本的に平等でなければなりません。旅客はどの駅員からも等しく同じサービスが受けられなばならず、どの乗務員の電車に乗っても同じ正確さで旅行ができなければなりません。なので基本的にどのスタッフも同じ能力を有していなければなりません。同じ能力というと少し語弊があるかな。等しいサービスを提供できるための能力条件を全員がクリアしていると言えばよいでしょうか。
 鉄道業では、ノルマや業務成績目標はありません。列車にたくさん旅客を乗せても、歩合給が発生することはありません。当たり前ですね。また、会社としても社員に能力や成績の個人差を求めるべきではないのです。少なくとも運輸現場の係員については、等しい能力を求められるべきです。
 しかしながら、最近の鉄道会社は運輸の現場にも成果主義や能力報酬のシステムを導入したがります。同じ車掌、同じ運転士でも能力に応じて階級差をつけ、いたずらに競争をあおります。昇給や昇進を餌に会社に服従させようとします。
 運輸の現場で、いったい何を競うのでしょう? 列車の運行速度を競うわけにもゆきませんしね。要するに、ゴマすりと蹴落とし合いをさせたいわけです。これによって職場の団結を阻止し労働運動を骨抜きにして、賃金や労働条件の引き下げを遂行しやすくするのです。
 安全を犠牲に営利至上主義を強行しているのが、現在の鉄道会社の実態です。鉄道ばかりか公共交通機関全般が同じ劣悪体質に傾倒しているんですけどね。

 クルマ社会の発達や小子化等の要因で鉄道の業績は、もうずいぶん以前から慢性的に伸び悩んでいます。しかしながら投資家(株主)に対しては右肩上がりの業績を示し続けねばならない。この途方もない矛盾が鉄道会社を脅かし続けています。上がらない右肩を上げ続けなければならない、物理的に不可能ですよね。でも経済という名の壮絶な愚行は、企業にこの不可能を要求し続け、人を切り捨ててでも企業景気の維持を優先させるのです。
 平成の世になって以降、わずかな市場の景気好転は、弱者を犠牲にして得た差益によるもので、純粋な生産による景気の好転はIT等を除いてあまり見られなくなってしまいました。
 経済という名の魔物に蝕まれた社会で、人とその安全が犠牲になり続けているのです。いったい何のための人間社会なのでしょうね。社会という幻を食い太らせるために人を犠牲にし続けるなんて。人と人とが手を取り合って安全快適に暮らせるようにする、それが社会というものの目的のはずじゃないですか。
 列車が脱線転覆したり、飛行機が墜落したりして、多くの人命が奪われ、資産家たちの大好きな株券が白紙に帰しても、経済の暴走は止まりません。

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