タイトル

■労働者が築く社会■

 平成の世は働く者にとってひじょうに厳しい時代になりましたね。企業は利益を労働者に還元しようとせず、儲けたお金は投資家に配当したり、企業拡大に使ったりしてばかり。多くの生産会社はグローバリズムの名のもとに多国籍企業と化し、市場や労働力を海外に求め、国内は放ったらかし。経済成長を遂げた企業でさえ、先行き不安を理由に労働者の賃金を抑える、収益が伸び悩んだ途端に賃金カット、リストラ、解雇。とくに若い人たちは、厳しい就職難の中ようやく就職できても充分な賃金はもらえない。
 少子化と高齢化が社会問題になっていますが、若い人たちは結婚して子供を育てるのに充分な収入がありません。高齢者の社会保障をしようにも、国は労働者から税収入が見込めない。
 企業はものを作っても売れない。若い人たちはみんな節約モードです。企業がむかしのように社員に充分な還元をしたら、若い人たちは結婚して家や車を買う、子供をもうけて育てる。家や車が売れて、学校も儲かる。国は税収入が増えて福祉を充実させることができる。
 不況というのは、世の中からお金がなくなってしまった状態ではありません。お金はあるのに回っていないのです。お金があるところにばかりにお金が集まり、そこから動かない状態が不況なのです。困ったものですね。お金が回らないことには社会はまともに運営できません。
 では、それは誰の責任ですか? お金を貯め込んで回さない欲張り資本家のせいですか? 利益を社員に還元せずに投資家へ配当してしまう企業のせいですか? 資本家ばかりを優遇する政治家が悪いのでしょうか?
 我々労働者には、責任はないのでしょうか。なんでも政治家や資本家のせいにして、愚痴を言っているだけの労働者には何も責任はないのでしょうか。
 ほとんどの労働者は自分たちが無力で、社会を動かす力は何もないと思っているようですが、はたしてそうなのでしょうか。
 国の人工の圧倒的多数を占める労働者は、じつはたいへん大きな力を持っています。古来より社会をリードしてきたのは、民衆の力なのです。そのことを我々が忘却している限り、世の中は良くなりません。アリンコだってあんなに小さいのに、素晴らしい団結力で壮大な地下帝国築き、キノコを育てたりチョウの幼虫を飼育したりしています。労働者が団結したら、大きな力を産むはずです。

 この章では労働運動の話しをしますよ。
 我々労働者は、会社に雇われ会社から賃金をもらっています。会社あっての我々なのですが、その逆もしかりです。労働者あっての会社です。労働者たるもの、真面目に働いてきちんと納税するだけでは怠慢です。
 賃金や労働条件は会社からもらっていると思われがちですが、会社は我々労働者が生産を上げるおかげで収益を得て、社員にも賃金を支払うことができるのです。労働者は自分たちの生産性に応じた賃金と労働条件を要求する権利があるし、それだけの働きをしているのです。していなければ会社は運営できていませんから。
 賃金や労働条件は会社からもらっていると思われがちですが、労働者が要求しなければ会社は何もくれたりしません。労働運動推進派の人たちは、賃金と労働条件は闘って勝ち取るものであるとよく言います。ずいぶん過激な表現に聞こえますが、まさにそのとおりで、労働者が何も要求しなければ、労働運動が弱体化すれば、企業はどんどん賃金カットとリストラを推し進めます。
 会社が経営難になったら、それこそまともな賃金ももらえないから、経営が苦しい時は社員も我慢しなければならない、そんなことを言う労働者も少なくありませんが、それは労働運動といった煩わしいことから逃げたい、会社にゴマをすって自分だけおいしい思いがしたい、そんな目先だけを見た安直な考えです。
 大企業で人件費のために倒産した会社はありません。倒産の原因は経営側の腐敗や判断ミスです。ですから大企業の労働者が、会社をかばって労働運動を否定するのは間違いです。

 民主国家において労使は対等です。経営者は経営に関する決定権や人事権を持ち、会社役員や職制は、ひとりの人間が大きな権限を持ちます。一方、労働者はひとりひとりの権限は小さいですが、会社の構成人員の大半を占め、団結力によって、団体交渉権やスト権といった、たいへん大きな力を発揮することができます。経営者や職制は経営の役割を担い、労働者は生産を上げる役割を担います。双方それぞれに企業に欠くことのできない役割を担う、対等の立場なのです。多くの場合、社長といえども我々と同じく会社に雇われた人材であり、会社の所有者ではありませんよね。
 そして労働運動を盛り上げることは、働く者に発言権を与え、パワハラを退け、明るく風通しの良い職場作りにもたいへん重要なことです。そのことは作業の安全を向上させ、公共交通機関にあっては、旅客に提供する輸送の安全を向上させることに直結しています。賃金や労働条件の要求と共に安全を守るための闘いでもあるのです。

 労働者は、目先の欲や怠慢によって労働運動を否定するべきではありません。会社の経営を心配するふりをしたところで、経営には何も責任を持てないでしょ?
 労働者は、時代の最先端に立って社会をリードする自覚とプライドを持たねばなりません。これから入社してくる後輩たちのために、未来を担う子供たちのために、努力し続けなければなりません。それが世話になった会社や社会への恩返しでもあるのです。

 とは言え、どう闘えばよいのか、自分が何をすれば良いのか、なにが出来るのか、こんなご時世ですから、よく解りませんよね。それに仕事だけでも疲れるのに、そのうえ労働運動なんて考えただけで憂鬱になりますよね。筆者だって、さんざんご立派なこと述べて来たものの、運動のために自分の時間をつぶすのは嬉しくありません。趣味や遊びに時間を費やす方が楽しいです。
 労働運動は、ダイエットや健康管理と同じで、頑張り過ぎて長続きしないやり方ではダメです。苦しいダイエットは長続きしないし、一気に頑張ってもリバウンドしてしまう。自分の時間の多くを犠牲にし、趣味や遊びを我慢してまで労働運動に専念するようなやり方は長続きしないし、結果も出せません。
 自分の生活を犠牲にすることなく、楽して成果を上げられるような、そんな労働運動について、これから考えて行きましょう。

巨悪の構図

 最近の風潮として、多くの労働者が労働運動に無関心であるように思えますが、その大きな要因として、会社からの圧力があります。日本の多くの企業が、ずいぶん以前からレッドパージ政策をとって来ました。レッドパージとは、日本共産党の党員を"赤"と呼び、それをパージ(切り捨て)する政策です。共産主義は日本の資本主義を真っ向から否定しており、会社をつぶそうとしているなどと説明し、社員に対して共産党に与みしないように思想教育することが多くの企業で行なわれて来ました。
 しかしながら、思想信条の自由は憲法で保証されており、共産党員の人たちは多くの企業の職場で労働運動を盛り上げるべく頑張って来ました。筆者も若い頃は、会社の説明を真に受けて、日本共産党が資本主義を根底から否定しているのだと思っていました。実際には、会社が共産党員を排除したがるのは、彼らが労働運動の達人だからだったんですね。
 会社は、労働組合の役員選挙に不当に関与し、共産党員の役員当選を阻止すべく強硬な選挙対策を実施し、とくに若い社員を対象に成績と昇進をチラつかせ、たいへん厳しい圧力をかけて来ました。そして多くの社員が、会社を守るためにレッドパージが必要であると信じ、労働組合の役員選挙における会社の関与、つまり選挙対策は、職場で常識化して来ました。
 選挙対策では、組合役員の議席数の候補者を会社が選定し、選挙区(つまり職場)を数人ずつのグループに分け、グループごとに誰と誰に投票しろという指示を与えます。開票時に票読みを行ない、どのグループがどれだけこれに従ったかをチェックします。従わない者がいることが判明すると、そのグループは成績や昇進が不利になるので、従わざるをえなくなるのです。
 たいへん残念なことに、このような不正行為に現場の労働者みずからが率先して協力しているのが実情です。会社に人事権を握られ、昇級昇進をチラつかされたサラリーマンの悲しさと醜さが伺えます。
 こうして共産党員が労働組合の役員に当選する機会は失われ、企業の思惑通りに労働運動を弱体化させることに成功したのですが、共産党員が役員選挙で通らなくなっても、彼らが立候補を見合わせても、会社は不当労働行為の手を緩めず、組合役員人事はすべて会社が握り、民主的な立場の候補者を落選させるために、選挙対策を続け、今もそれが続いています。今ではレッドパージなんて関係なく、正当な立場の候補者すなわち会社をつぶそうとする会社の敵、そんなデタラメがまかり通っているのです。

 人事権を会社に握られ、労働運動組合の役員もすべて会社の思いのままという状況では、社員としては万事休すですね。労働者の団結力を脅威に感じることなく企業本意の政策を実施し、人件費の負担も大幅に減らすことに成功した企業は、経済的な自由を得たにも関わらず、収益の多くを労働者に還元していた頃より業績を悪化させています。人を育てることを忘れ、人を食いつぶすしか能がない多くの企業がどうなったか、今の不況を見れば、話すまでもないですね。

 日本のほとんどの鉄道会社で、今でも不当労働行為と、脅迫まがいの労務政策が続いています。JR福知山線の脱線事故では、企業の社員に対する大きな圧力が、運転士の操業ミスを誘発した可能性が指摘され、世論もそれに同調しました。企業は不正なやり方で労働運動を弱体化させることで、業績を悪化させたのみならず、輸送の安全さえも低下させ、けっきょく経営的に大打撃を受けたわけですが、それでもJRの体質は何も変わっていませんし、時間とともに世間の関心が風化するのを待っているようなわけです。ほかの鉄道会社も事情はまったく同じです。
 鉄道だけじゃなく、航空業界でも同じです。御巣鷹山の墜落事故で多くの犠牲者を出した日本航空では、あの屈辱的な事故のあとも、人を食いつぶす政策を緩めず、操縦士は、騒音と緊張と戦いながら超過勤務に耐えている状況ですし、過剰に強化される健康診断によって、熟練の乗務員が適性を失って地上勤務に移されたりしています。客室乗務員の超過勤務や契約社員化も世界一の水準です。

 企業の巨悪の体質とは、恐ろしいものです。経営者や管理職と言えども我々と同じ人間です。社長だって個人的に話しをすれば、会話は普通の人間と変わるところはありません。でも企業人になると、意見交換が不可能な別の星の生き物になってしまいます。彼らが盲信している縦社会の構造が、彼らを企業の部品にしてしまっているのです。
 そして大きな事故を起こし、尊い人命と共に、企業は信頼と資産を失います。投資家の大好きな株券も紙切れと化します。自滅への道をたどるために暴力による植民地政策を強行し続けた昭和の帝国主義とそっくりです。

 長く生きながらえた企業は必ず腐敗すると言われています。公共交通機関は長く生きながらえて来たうえ、国民の足として政治的に擁護されているので、何をやっても許されると思っているような感があります。とくにJRは、航空会社と同じで、政治的にひじょうに有利な立場にあります。日本の鉄道会社は、JRを手本にして労務政策を遂行し、数々の不正や不当労働行為を上手く強行するために、経営コンサルタントを雇っているそうです。そのような手間と経費を健全経営に充て、人材を育成すれば、長期的展望が開けてくるのに。

 このような巨悪に対して労働者は対抗し得る力を持ち合わせているのでしょうか。答えはイエスです。労働者が個人的な損得感情に流されることなく、職場仲間あるいは全社員さらには全国民の公益を考えて団結すれば、ひじょうに大きな力が生まれます。企業はそれを恐れ、団結力を分散させてくじくために、ひじょうに多くの監督職を起用し、経営コンサルタントに多額のお金を支払っているわけです。

 労働運動は企業を弱体化させるためのものではありません。労働者が財力や暮らしの安定とゆとりを持てば、消費が促進され企業も潤います。前述しましたように、人件費で倒産した大企業はありませんし、労働運動が活発だった頃は、企業にも元気がありました。
 会社がつぶれたら困るからとか、会社に逆らって自分が損をするのはイヤだからといって、労働運動を否定することは、けっきょく企業を腐敗させ、社員も得をすることはないのです。
 企業を活かし社員を潤わせ、明るい人間社会を築くのは、我々労働者です。政治家や資本家に責任を丸投げしていても世の中は良くなりません。

労働者を取り巻く現状

 資本家が経済を回す術を忘れ、労働者が運動を忘れた世の中は、たいへん暗澹としていますが、明るい未来は必ず訪れます。経済的な発展を終えた爛熟社会の未来を悲観的に考える人は少なくありませんが、そんな状況だからこそ、何とかしなければと考える人も増えて来ていますし、様々な社会問題への関心も高まっています。
 むかしと比べて労働運動が下火になり、多くの人々が保身に走るようになったのは、人々の暮らしが豊かになり不満が減少したからでもあるわけで、そのことが企業の増長を許す結果にもなったわけです。
 労働者が自らの実力に気づけば、自らの力で明るい未来を築くことができる可能性に気づけば、人々は必ず前に向かって歩き始めます。
 それともこのような考え方は、楽観的すぎるでしょうか。では、今後も我々は何もせず、政治家や資本家が素晴らしい未来を築いてくれることに期待しますか。

 労働者は、民衆は、社会を運営する責任を権力者や組織に押し付け、それに依存していてはダメです。もっと自立しなければ。
 今はむかしと違ってインターネットを通じて、多くの人々とのコミュニケーションが容易にできます。個人が世界へ向けて情報を発信し、世界中の高度な情報を自宅で容易に手に入れることができる。この素晴らしい仕組みを用いて自立し実力を発揮している人はたくさんいます。
 大勢の人々が、一歩前に踏み出すだけで、世の中は大きく変わります。企業の中で労働者が弱体化しているのは、国の政治が資本家優位に進んで行くのは、大勢の人々が黙っているからです。
 今の社会は、決して悪い世の中じゃありませんよ。電脳環境の整備によって、個人が強力な情報発信能力を持ち、企業や権力者の不正を許さない仕組みが整い、人権を擁護するシステムも整って来ました。もちろんそれらはまだまだ未完成で、不正や人権侵害はそこら中に蔓延していますが、それらを是正するための法律や条例、相談窓口は以前に比べ格段に進歩しました。そしてそれらは、国や企業が自発的に整備したものではなく、人々が訴えかけて政治を動かした結果なのです。
 何もしてくれない政治家が悪いんじゃない、搾取するばかりの企業が悪いんじゃない。黙って何もしない我々が悪いんですよ。
 世の中を変えて行くのは、人間社会をリードして行くのは、我々民衆です。民衆は時代の最先端にいて社会をリードし続けているのです。

労働運動を妨げるもの

 大手企業において労働運動が下火になってしまった要因は、別項でも述べましたように、経済成長によって人々が経済的に豊かになり、保身に走る人が増えたからですが、これ以外にも、労組の組織が複雑になってしまったこと、運動をリードして来た集団が後継者を育てられなくなってしまったことが深刻な問題になっています。
 もちろん、企業側の圧力、攻撃的な労務政策や不当労働行為などが、運動を妨げている最大の原因ではあるですが、それは企業の問題であり、それを跳ね返すのが労働運動です。

 むかしは、労働者みんなが貧乏で、統一要求がはっきりしていました。「明日の米代よこせ!」ということでみんなが一丸となることができたのです。運動が成果を上げ、労働者が経済的に豊かになると、個人々々の要求が多角化してゆきました。もっとお金が欲しいという者、お金よりも労働を軽減して欲しいという者。それぞれの思惑のちがいが立場の相違を産み、団結力を疎外することにもなりました。運動よりも企業に依存して保身に走る者が増えたのはこうした状況からで、企業はこれに付け入り、昇進や昇級をチラつかせて個人々々をバラバラにして行ったのです。

 労働者が豊かになり、労働組合も財力を貯えると、組合機関の設備が立派になり、部所が増え、組織が複雑になりました。個人の要求を組合に提出するにも多くの手続きを踏まねばならなくなり、なんだか組合が遠い存在になっていったのです。
 労働組合はすでに長い歴史を持っており、複雑な組織体制と難解な専門用語で武装しています。若い社員にとってこれを攻略するのは至難の技で、何が何やらさっぱり解りません。古い人間にとっては、労組の歴史も専門用語も運動の中で自然に身についた言わば常識なのですが、若手にとっては目の前に立ちはだかる巨大な壁です。これでは若い人たちに組合離れを奨励しているようなものです。

 私鉄業界では、労働組合だけでなく、企業内の様々な文化活動も、職場の実態を作品に著し、労働運動に貢献して来ました。全国の私鉄労組を統括する機関である私鉄総連もこれを支持し、写真や漫画、文学といった企業内文化サークルが、全国レベルの創作活動を展開しました。
 しかしながら、文化サークルも労働組合と同じで、後輩育成に苦慮し、その活動は下降の一途をたどるようになってしまいました。文化サークルにおいても、輝かしい歴史の重みが、若い人たちの前に壁として立ちふさがったのです。今の時代、企業内の文化サークルに所属するよりも、個人で遊ぶ方が楽しいし、創作の場も広がります。鉄と汗の臭いのする労働者文化なんて年寄りの昔話みたいなもので、あまり面白くありません。
 若い人たちには、若い人たちの表現方法があり思想があります。現代人の文字離れを指摘する声をよく聞きますが、筆者の知る限りそれは間違いです。若い人たちの電脳ツールを介した表現力と情報発信力、コミュニケーション能力は、古い人間のそれをはるかに凌駕しています。漢字もたくさん知っています。
 労働者文化の後継者を育成できないのは、古い人間が、過去の栄光を振り回すばかりで、今の文化事情を知ろうとしないからです。テレビやパソコンで育った人たちの方法論に対して、活動の場を与えようとしないからです。文化の灯を絶やさず後世に伝えて行こうとするならば、守ること以上に変わる努力が必要です。

 若い世代の労働組合離れ、企業内文化離れに対して、それを担って来た人間はもっと斬新な発想で考えて行かねばなりません。押し付けるのではなく、若い人たちの話しを聞く、若い人たちに教えを請うくらいの態度で臨まねばなりません。
 筆者に労働運動の何たるかを教えてくれた偉大な先輩たちは、教えを垂れる以上に話しをよく聞いてくれました。話しを聞いて意見をくれました。そうした中で、筆者も次第に自信がつき、今こうして本箸を執筆しているわけです。

 労働組合が、労働運動の壁になっているようではどうしようもありません。古い人間は、若い人たちの話しに熱心に耳を傾けなければなりません。また、どんな素朴な疑問、基本的な質問にもきちんと答えなければなりません。古手には常識であっても、それを理解できていないのが新人です。
 運動自体が運動の前に立ちはだかる事態をまず取り除く、まずはそこからです。そして若い人たちは、労働運動アレルギーをなくし、自分たちの言葉で自分たちの意見を先輩方に上申しましょう。ひとりの意見は愚痴や反抗ととられがちでも、複数の発言は意見として通ります。その団結力が我々の有する本当の力なのです。

労働者の実力

 労働者は、企業や社会の中で圧倒的多数を占める人員でありこれはひじょうに大きな力です。ひとりひとりの力は小さくても、それを合わせるとたいへん大きな力になります。理屈では解っていても、どうやれば団結できるのか、そのために自分の時間や労力がどれだけ失われるのか、昇級昇進の妨げになるようなことはないのか。いろいろ心配ですよね。しかしながら、団結力で圧政を跳ね返さなければ、賃金も労働条件も改善されません。労働者が弱い状態のまま自分だけ昇進しても、名ばかり管理職になってこき使われるだけです。そして精神的に追い詰められ、体を壊してしまう。いくばくかの昇給と引き換えに大きな犠牲を払うことになります。
 ひとりの意見は、愚痴や反抗と見なされ、不利益を被ることもありますが、大勢の意見を愚痴や反抗と見なすわけにはゆきません。相手はそれを真摯に受け止め、前向きに検討しなければならなくなります。それが団結力です。
 労働者は、団体交渉権やスト権といったひじょうに大きな権利を有していますが、その本当の意義を理解している人が少なすぎます。賃上げ交渉は、会社が選んだ組合役員がやるんだから、まともな交渉ができるはずがない。スト権投票をしてスト権を確立しても、ストライキを打たないのなら意味がない。大勢の労働者がそんなふうに考えています。つまり自分たちの真の力を認められないのです。たいへん残念なことです。
 では、我々に実質的な力が本当にあるのか、具体的に見て行きましょう。

 まず、スト権投票ですが、これはストライキ行動を行使するために労働者の過半数の賛成意見を集めるものですが、ストライキと言えば、仕事を放棄して会社に要求を突き付ける、過激で大掛かりな統一行動です。個人でこれを行なえば職場放棄は厳罰の対象になってしまうところですが、労働者が団結して行なえば正当な意思表示になります。
 労使協調路線を歩んで来た最近の鉄道は、電車を止めて会社に要求を突き付けるようなことは皆無になってしまいましたが、今でもスト権投票は行なわれます。そして多くの労働者がこれに賛成票を投じます。ストを構えて春闘に臨み、要求が通らなければストを敢行すべきだという熱い思いで投票しているのです。
 でも組合はストを打ちませんし、私鉄総連も各労組に対してストを指示しません。総連や組合の言い分は、他産業が不況にあえぎ低い賃金と低い労働条件に甘んじている時代に、鉄道だけが強行策を講じることは世論が認めない、そんな具合です。むかしは国民春闘と称して、他産業の労働運動をリードするために強硬な行動をとってきたのに、ずいぶん弱気になったものです。
 それならスト権投票に何の意味があるのだ、それが多くの労働者の素朴な疑問だと思いますが、組合幹部が日時を設定して会社との直接交渉に臨むとき、スト権投票の賛成票が多いほど、組合側はそれだけ強気に出れるのです。これはひじょうに大事なことです。スト権投票の投票率が低下して行ったり、反対票が増えて行ったりすれば、将来的にストライキやスト権投票がなくなってしまうかも知れません。スト権投票を無駄と考えることなく、熱い思いで賛成票を投じ続けましょう。

 労働者が賃上げや労働条件改善の要求をまとめ、労使の各代表が日程を定めて討議することを、団体交渉といいますが、鉄道各社では組合役員選挙に会社が不正に介入することが常識化してしまっているので、労働者の組合の代表に対する不信感が大きく、団体交渉でも充分な討議が行なわれているのか疑問視する人が増えています。
 確かに民主的な立場からの候補者が、会社側の組織選挙でことごとく敗退する状況は、大いに憂慮すべき自体ですが、それを許し組織選挙に荷担しているのは、労働者自身です。つまり団体交渉が会社優位に進んでしまうのも、労働者が悪いのです。
 労働組合が極めて会社寄りであったとしても、会社の御用組合に成り果てているのだとしても、団体交渉をはじめ、会社に対して直接交渉を行なうのは組合です。そして労働組合の名を冠している限り、役員は労働者の要求に対して"ノー"ということはできません。
 多数の賛成票のスト権投票結果を持って、労働者からの強い要求を持って、それでも会社とまともに交渉しない組合はありません。今の組合役員は、役員の地位を自分の出世の足掛かりにしているなどという声をよく耳にしますし、それも否定しませんが、大勢の労働者の強い突き上げを跳ね返してまで、会社の味方をし続けるなんてさすがに無理です。労働者の突き上げが強ければ強いほど、組合も会社の味方がしにくくなります。

 労働者は、団結力で会社と対等に討議し、要求を勝ち取ることができます。労使対等の原則が揺らいでしまうのは、会社が悪いのでも、組合が弱すぎるのでもありません。会社は労働者から搾取したい、そういうものなのです。たくさん働かせてたくさん生産を上げさせ、賃金は低く抑えたい、それが会社なのです。そのためなら企業倫理に反することだって何だってやる、それで業績を伸ばせるなら、それが会社のため、ひいては働く者にも安定した雇用を与えられる、それが企業の考え方というものです。
 これに対して労働者の立場は、労働者が豊かにならなければ経済も回らないじゃないか、労働者が貧乏だったら企業が生産してもそれを消費する者がいないじゃないか、企業倫理もきちんと守らないと、いつかとんでもない失敗をして大きな損害を被ることになる、といったものです。
 労使対等の考え方は、双方の立場からの意見が拮抗している状況から、双方にとって最も良い結果を導き出すというものです。なので労働者が、会社寄りの考え方をして、良い成果は得られません。それは自分の目先の欲だけを考えた利己的な判断に過ぎません。
 そういう自分本意の生き方をした結果、精神的に自滅してしまった人、名ばかり管理職としてあえいでいる人、定年後に我々と目も合わせられず逃げるように去って行く寂しい老後を歩んでいる人、そんな人たちを筆者はたくさん見てきました。同僚の足を引っ張り、労働者の権利を犠牲にした結果がこれでは、誰も浮かばれませんね。加えて企業も国の経済も弱体化してしまった。
 労働者は、会社を愛するがゆえに労働者としての立場を貫徹すべきです。それが労使双方に良い結果をもたらし、後輩や次の世代に明るい職場、明るい世の中を残すことにもなるのです。
 労働者は、あきらめてはいけません。労働組合を見放してはいけません。それは自分自身を見放すことに他なりません。自分と職場仲間の力を信じて団結しましょう。道はきっと開けます。開けるのです。開けなければ、このままでは、人間社会は終わってしまうじゃないですか。終わらせないための力を、我々労働者が持っているのですよ。

縦社会と横社会

 労働運動が衰退し、労働者の地位が下落し、とくに若い人たちの就職難や劣悪な労働条件、低賃金、これに伴う将来不安が深刻化している現在、今こそ労働運動を盛り上げ、雇用拡大と底辺層の労働者の賃上げを勝ち取って行かねばならないのですが、労働者の団結力がなかな発揮されず、運動は低迷しています。
 大企業は、不当労働行為によって労働組合の役員を抱き込み、かつまた多くの管理職、監督職を起用し、労働者への圧力を強化し団結力の分散を図っています。生産に関係のない無駄な人件費と経費が、社員の抑圧に使われているわけです。
 一方、労働者は、会社寄りの組合役員に不信感を抱き、複雑で難解な組合組織を持て余し、闘うことを忘れ保身に傾倒しています。運動を支えて来た人たちも後継者の育成に苦慮しています。
 会社側は、充分な時間と労力を使って労働運動つぶしができるのに、労働者の方は運動を盛り上げるための時間も人員も不足しています。
 さらには、政治も企業が人件費削減しやすいように、製品管理の規制緩和を行ない、契約社員制度のような劣悪な雇用条件を奨励しています。

 これが爛熟した社会の顛末なのでしょうか。国と企業が人を食いつぶすような社会に未来はあるのでしょうか。
 世の中は腹立つことばかりで、具体的な希望が見えて来ない状況ですが、社会はきっと変わります。政治や経済なんてものは、たちの悪い冗談みたいなものでして、人間社会というものは人々の見る夢なのです。人々に夢見る力が残っている限り、希望がついえることはありません。
 寝ぼけたことを言っているとお思いでしょうが、人間の歴史を見れば解るように、人は過去から連綿と創造と破壊を繰り返して来ました。創っては壊し、壊してはまた創る。政治も経済も留まることなく流動し続けます。
 そうした創造と破壊の中で、変わらぬものは、人々の夢と向上心なのです。多くの発明や発見、改革が人々の夢から生まれました。人々の「できたらいいな、あったらいいな」からすべては生まれたのです。

 オタクといわれる人種をご存知でしょうか。夢みたいなことばかりほざいて、美少女アニメとか見て、にへらにへら不気味に笑っている何とも怖い人たちなのですが、彼らは夢見る力だけで、理想や希望をホイコラ叶えてしまいます。そしてその営みは世間に大きな影響力を及ぼし、数々の流行を産み、大きな市場を築きました。アニメやコミックとそれに付随する文化は世界中に認知されるに至りました。
 彼らは、一見してひとりひとりバラバラに思い思いのことを勝手にしているように見えますが、ひじょうに大きくて強力なネットワークを築いていて、電脳世界と映像業界、音楽業界を席巻しています。指導者も上下関係も存在せず、中央集権も地方分権すらも必要とせず、壮大な文化圏を築いています。
 オタク社会の原動力は、まさに夢と希望であり、それを維持向上させるために、法規も条例もないのにシステムが維持されているのです。この大規模な横社会に学ぶものは少なくありません。

 労使の関係はある意味、縦社会と横社会の闘いであり高め合いであると言えます。縦社会は権力にモノを言わせて人心を掌握しようとし、横社会は信頼関係で成り立っています。縦社会の維持のために、上層部は下部へ力を誇示し、利益供与と引き換えに服従を要求します。これに対して横社会では、利益の共有とそれに伴う信頼関係を必要とします。
 縦社会を維持する人間関係は、しばしば脅迫関係(利権を失うのが怖いから従う)に変じ、上下の信頼は失われます。激しい競争と蹴落とし合いが絶え間なく続き、危ういパワーバランスの上に成り立っています。横社会は、形態が曖昧で一見して明確な社会構造が見えなかったりするのですが、強力な情報ネットワークのための様々な方法(くちコミ、コミュニティやサークル、インターネットなど)を自然発生的かつ必然的に確立しており、状況の変化や最新情報が社会全体に迅速に伝わり、柔軟にこれに対応することができます。
 縦社会がシステムを維持するために、様々な規制を設け、多くの経費と人材を費やすのに対して、横社会は組織性をあまり必要とせず、自由参加型のシステムで運営されています。
 人間社会では、縦社会と横社会が完全に独立しているわけではなく、縦社会の中にも階層ごとに横社会が存在しますし、横社会の中から縦社会が発生することもよくあります。人間はひとりで複数の社会(人間関係)に所属し、縦社会も横社会も経験しています。

 こうして見てくると、縦社会よりも横社会の方が人間性にあふれ温かみがあり、多くの利点を持っているように見えますね。それは横社会が人としての特性を発揮しやすい、言わば人間の本質に近い形態であるからです。そもそも横社会という言葉は、ふだん使われることもなく人と人との間にそれは自然にいつの間にか存在しているものなのです。これに対して縦社会は意図的に築かれたものです。
 縦社会も元々は、人々が豊かに共存し合うために、高い理想のもとに築かれるのですが、組織が成長して大きくなるにつれて、組織を維持することの方に重きがおかれるようになり、いつしか組織を守るために人間に犠牲を強いるようになるのです。人々を豊かにするための組織のはずが、組織が人を食いつぶしてしまうという本末転倒が生じるのです。
 会社が人を食いつぶし、労働組合ままでもが組織化が進んだ結果おなじようにふるまってしまう、これは言わば必然なのかも知れません。会社および労働組合が2重構造の縦社会となって我々労働者に襲いかかるわけですが、我々はそれを跳ね返して、権利と賃金を勝ち取り、なおかつ企業の不正を是正して行かねばなりません。
 会社側の大きな圧力に抗し得るだけの力が、我々にはあるのでしょうか。我々労働者の大きな武器は、横社会の持つ数々の利点です。我々は、横社会を維持するために策謀を巡らしたり、ウソを吐いたり不正を働いたりする必要がなく、正々堂々とまっとうな意見を主張することができます。
 労働者は、大企業という典型的な縦社会に対して、対等な立場に立つことができます。そして労働者同士の信頼関係と団結力があれば、企業の圧力を跳ね返し、要求を突き付けることができるのです。

リーダーシップの落とし穴

 労働運動にとって重要なことは、大勢の力を集結させることと継続し続けることです。そのためには、あまりムキになって頑張り過ぎてはいけません。激しい闘いよりも穏やかで長続きする運動を継続し、後輩へ受け継いでゆかねばなりません。
 労働運動は、会社の労務政策のように監督職が仕事中に高給をもらいながら行なうものではありません。労働者が、自分の時間と労力を使って公益のために行なう、ボランティアのようなものです。ボランティアと違うことは、救済する相手が自分及び同僚という点です。それと企業に対する浄化作用、雇用の確保、社会的影響力といった大きな意義も包括しています。

 労働運動に参加することによって団結力が育まれたことが実感できるようになると、それが楽しくさえなって来ます。自分の行動が同僚を助け、社会にも貢献できるという満足感はたいへん心地良いものです。他人や世の中の役に立ちたいという欲求は健全な人間が強く抱いているものです。
 でも、ここで注意が必要なのは、一生懸命になりすぎてはいけないということです。激しい短期決戦ではなく、穏やかな長期戦を延々と続ける必要があるわけですから、肩の力を抜いて、実力の半分かそれ以下を出し続ける気持ちで気長に運動を続けましょう。
 闘い方や方法論に熟達して来ると、職場から頼りにされることも多くなりますが、自分が職場のリーダーシップをとっているような気持ちを持ってはいけません。責任感に燃え職場仲間を先導しようとして逆に職場から敬遠されたり恐れられたりすることもあります。リーダーは仲間を叱咤激励して理想的な統一行動を目指そうと頑張るものですが、頑張り過ぎると空回りになって誰も付いて来なくなります。リーダーの言うことは正論で、みんなそれに付いてゆくべきなのですが、人にはそれぞれ事情があるし性格や実力の差もあります。誰もがリーダーのようにできるわけではありません。それと、実力がある人でも、他人のリーダーシップによってつぶされることも少なくありません。実力のある人は、リーダーの女房役として、意見したり仲間をかばったりしますが、それをリーダーが自分への批判や反駁であると受けとってしまうと、団結力にひびが入ります。
 また、あまり鷹派な態度をとりすぎるのも良くありません。労働組合の態度を厳しく批判し、会社を目のかたきにし過ぎると、若い人たちや穏健派にとって脅威になってしまいます。会社は監督職をけしかけて、常に若い人たちや穏健派を抱き込もうとしています。運動推進派は会社にとって宿敵なので、運動推進派と付き合うと昇進できないとか、会社がつぶれてしまうとか、熱心に説き続けます。運動推進派が鷹派であればあるほど、会社の思うつぼなのです。会社の心理戦をなめてはいけません。監督職の話しは極めて利己的で、要領よく勝ち組になれということしか言っていないのですが、言われる方は、上司という威圧に負けて理性を失いがちになります。詐欺に引っかかる心理と似ていますね。

 労働運動は、横社会です。運動に熟達した人はリーダーシップをとりがちになりますが、その人を中心に縦社会を築いてしまってはいけません。団結力が強くなればなるほど、その中で中心的な役割を果たす人が目だって来て、組織化が進み、いつの間にか縦社会化が進行してゆきます。団結力とは組織力であり縦社会化とは両刃の剣でもあるわけで、縦社会化の否定はともすれば組織力の否定にもつながりかねないので、たいへん難しいところです。

 組織力がついて来て、集団としてのまとまりが出て来ると、集団の中で中心的役割を担う者とそうでない者が生じて来るものです。そして実質的役割を成す人間の数は集団の3割ていどで、あとの7割はあまり機能していない頭数だけの人員になります。この、質的人員と量的人員の配分もまた、組織力の宿命みたいなものです。
 では、量的人員は無能なのかというとそうではなく、組織というものの体質が自然にそれを要求してしまうのです。量的人員は状況に応じて質的人員と入れ代わることがあり、それによって組織の様相が変わったりします。
 人間はそれぞれ考え方や才能が異なり、集団は可能な限り様々な個性を含有するべきです。その多くは量的人員となり、機能性は低いけれど集団の規模を構築する役割を担います。また集団のおかれた状況というものは変化してゆくので、それに応じて量的人員の中から質的人員へ移行する者が現れ、逆に質的人員から量的人員への移行も起こります。
 横社会では、こうした人員の移行は昇格や降格ではありませんし、そう考えるべきでもありません。集団が状況の変化に対処するための能力なのです。例えば、これまでアナログな方法で掲示物等を作っていた集団が、周囲の反響に応じてデジタルな方法に移行しようと判断したとしましょう。すると、達筆で掲示物作成に力を発揮していた人が量的人員へ移行し、マニアックなパソコンの達人が質的人員へ移行するといった事態が起きるかもしれません。
 それと人間はいろんな集団あるいは社会に属し、あるところでは質的役割を演じるものの、別のところでは量的人員に甘んじていたりします。人にはそれぞれ得意分野と役割があって、そのそれぞれが社会にとって必要なのです。

 横社会的集団においても、質的人員と量的人員という役割の差異が生じて来る時点で、縦社会的な組織化が始まるわけですが、縦社会とのちがいをきちんと把握しておけば、縦社会化の弊害を防ぐことができます。組織力が大きくなっても横社会の利点を活かし続けることができます。
 縦社会では、質的人員と量的人員は、幹部と一般人員に明確に区分され、両者の間には主従関係が生じます。物事の決定権は幹部にあり、一般人員は幹部に服従しなければなりません。横社会でも、行動力のある人員が幹部のようにふるまうことはありますが、それは永続的なものではないし、様々な状況に応じて幹部的役割が入れ代わることもできます。
 統率力のある人がリーダーシップをとり、集団を引っ張って行くというと、一見理想的な集団の姿のように思えますが、そこでリーダーが神格化され、他の人たちが彼に盲従したり、幹部を聖域化してしまったりすると、それはもう縦社会です。

 労働運動を永続的に推し進め、それを担って行く後継者を育成するためには、職場が横社会としての集団を維持し、上下関係を作らず、極めてシンプルな運動の図式を描く必要があります。動ける者は率先して動き、知っている者は未熟な者の素朴な疑問にきちんと答える。仲間の行動をちゃんと評価する。迷っている者、困っている者を独りにしない。
 あまり難しく考えてはいけません。素直な気持ちで意見を出し合って、気取らない形で話し合って、友情と信頼関係を築いてゆきましょう。率直で単純明解で、不慣れな人を迷子にさせない、誰もが気軽に安心して参加できる運動を構築して行きましょう。
 専門知識よりも基本が大切です。応用力は多くの場合、基本を覆い隠して人を煙に巻くための策略です。そんなものは単純明解な基本的な発想と発言でいくらでも攻略できるのです。
 みんな仲良く、そして楽しく。これが職場仲間の理想的な関係ですし、強力な団結力の源なのです。

労働運動を楽しもう

 労働運動は、労働者の権利を守るための闘いです。賃金と労働条件を勝ち取り、次の世代の雇用を確保し、消費者景気を向上させる、それが労働運動です。だから真剣勝負なのです。
 運動なくして労働者の地位向上はありえません。賃金や労働条件は、真面目に働いて生産を上げれば会社が勝手にくれるものではありません。
 会社は縦社会です。服従と脅迫関係、蹴落とし合いと力関係で成り立っています。それ故に、長く存続すると必ず腐敗し自滅を招きます、そういう構造になっているのです。そうならないためにも労働者が労使対等の立場に立ち、毅然とした態度で意見と要求を会社に呈示し続けなければならないのです。
 企業はなかなか手ごわいです。人事権を握り、たくさん監督者を起用し、威嚇して来ます。難攻不落の要塞に見えます。
 でも、ひるむことはありません。我々は会社の幹部を圧倒するだけの人数を抱えています。団結力を充分に発揮できれば、我々は会社を動かすことができます。
 会社は、ずるっこいことばかりして来ますね。たくさんウソを吐くし、利己的な意見を正論のように吹聴する。これに対して我々は、汚い小細工を弄する必要もなく、正々堂々と正義を振りかざすことができる。これは我々にとって大きな強みです。
 これまであまり熱心に労働運動に参加して来なかった人たちにとっては、行動を起こすのもなかなか億劫だし、具体的に何をすればよいか判らないかもしれませんね。それでも労働者としての基本的な考え方や、素朴な疑問はたくさんお持ちでしょう。それこそが、労働運動にとって最も重要であり、最大の武器でもあるのです。
 労働運動が猛々しかった昭和の時代でも、誰もが専門知識に長け、誰もが行動力があったというわけではありません。シンプルで基本的な意見がたくさん集まって大きな団結力、組織力になっていたのです。

 労働運動は、真剣勝負です。我々の生活と将来性がかかっているのですから。真剣勝負ではありますが、頑張り過ぎて息切れしてしまっては何にもなりません。ゆとりある闘いを心がけましょう。できれば、笑顔で楽しく、仲間と運動の話しをするのが楽しみになるような方法を見つけ出してゆきましょう。
 運動のために多くの労力を費やし、自分の時間を大きく削るようではダメです。趣味や娯楽、家族との時間は大切にして下さい。自分たちの暮らしを守るための闘いで、個人や家族を犠牲にしていたのでは話しになりません。職場仲間同士、ミーティングをしたり勉強会に参加したりすることはひじょうに重要ですが、個人や家族で予定があればそれを優先させるべきですし、また仲間に参加を強要するべきでもありません。

 労働運動にとって最も重要なことは、労働組合が設定する企画に可能な限り参加することと、会社の不当労働行為に協力しないことです。
 会社が、会社を守るためと称して行なう、組合役員選挙対策に応じてはいけません。それは重大な違法行為です。個人で断ることが困難であれば、職場として断固断りましょう。労働組合に対して、会社の違法行為の取り締まりを、職場として申し入れましょう。
 そして、民主的な立場から立候補した仲間に投票しましょう。正しい立場の人間が当選すれば、会社の圧力が必ず弱くなります。複数の正義が当選すれば、職場の風通しがたいへん良くなります。パワハラまがいの指導に対して毅然と抗議できますし、環境改善も進みます。
 スト権投票や様々な要求に関する投票には、必ず賛成票を投じましょう。たとえストを打たなくても、賛成票の数は労働者の意志の反映ですから団体交渉の武器になります。
 会社から提案が降りてくると、労働組合による職場説明会が催されますが、積極的に参加しましょう。参加者数が少なければ、労働組合も職場のために積極的に動いてくれません。会場を満席にするだけで、それは職場の強い意志表示になります。
 説明会では、勇気を出して質問や意見を述べましょう。とくに若手の意見や、これまで運動に積極的じゃなかった人の声は、大きな影響力を持ちます。不明な点や難解な専門用語に対してどんどん質問しましょう。質問はそれ自体が強い意志表示なのです。
 年に数回しかない説明会にさえ人が集まらない、そんな状況では組合役員も積極的に動いてくれません。年に数回の説明会の労を惜しむ結果が、毎日の労働時間の超過や賃金カットを招いてしまうのです。
 春闘決起集会や様々な行事への参加も億劫がっていてはいけません。そんなものに参加するより遊びたい、その気持ちは解りますが、そのおかげで日々の遊ぶ時間も、お小遣いも減らされて良いですか? わずかな努力を惜しむ結果、賃金や労働条件が大きく改悪されます。そして1度失ったものを取り戻すのは容易なものではありません。

 労働運動に積極的に参加したり、会社の選挙対策を拒んだりしたら、昇進できなくなると心配ですか? 会社の圧力に対して個人ではなく職場として毅然とした態度をとれば、みんなが従わなければ、干される人はいなくなります。会社の不正に対して、みんなで"ノー"と言える方法をみんなで考えましょう。
 筆者のいる職場で、会社側の厳しい干渉にも関わらず民主的な立場の候補者が当選したことがありました。その時は車掌からの運転士登用数が他職場より増えました。職場の意志表示がそれだけの影響力を発揮したわけです。これ以外の昇給や昇進にもいても、職場が干されるようなことはありませんでした。
 労働者一人々々が、もっと自分の力を信じましょう。自分の小さな行動が労働運動に与える影響を知りましょう。会社は個人的な昇給昇進をチラつかせて、不正に加担しろとそそのかします。あるいは不正に加担することが会社を守ることだとウソを言います。しかし、それに応じて来た結果がどうなったか、みんな知っているはずです。
 我々の大儀は、個人の利益を守ると共に、職場の利益や作業の安全、次の世代の人たちの利益、地域社会の雇用と福祉の増強、消費者景気の向上、そして会社の生産性の向上といったたいへん大きな問題を包括しています。そのためのひとりひとりの小さな努力の結集、それが社会を育て世の中を変えてゆくのです。

労働組合を育てよう

 今の世の中は、極めて資本家本意に運営され、我々労働者は企業に搾取され食いつぶされるばかりのように思えます。企業は業績が下がるとすぐに賃下げや解雇の判断をし、国もそれがしやすいように、製品管理の規制を緩和し、契約社員制度等を奨励奨励しています。企業が貧窮すると国が回らない、そのためには労働者を犠牲にするしかない、資本家や政治家はそんなふうに考えているのでしょうか。
 しかしながら、労働者が貧窮しているせいで消費が低迷し、企業はものが売れず、国は税収入が落ち込んでいるのではないでしょうか?
 企業は収益の多くを投資家に配当し、事業展開のために銀行から借金し続けます。配当と借金をつつがなく継続することが、企業としての責務であり、それで経済が回る、消費者景気などは当てにしない、そんなふうに考えているように見えます。
 労働者の賃金を抑え雇用も縮小するから、消費も伸びない。生産を縮小するしかない。それでも配当と借金を縮小するわけにはゆかないから、さらに人件費を削って費用を捻出する。また消費が後退する。お金は資本家だけに集まり、そこで停滞したまま回らない。それが今の経済情勢ですね。
 人件費を削減するための賃金カットと雇用の縮小を進めるためには、労働運動を押さえ付けなければなりませんから、企業は生産性に直接関わらない監督職ばかりを増やし、現場に圧力をかけて労働者が団結しないようにし、不当労働行為によって労働組合を抱き込んでしまおうとします。
 労働組合の役員をすべて会社が選定した人員に置き換えてしまうと、役員と絶えず緊密にコミュニケーションをとるようにし、会社と組合役員との結束を高めてゆきます。一方、労働者は労働組合に対する不信感を募らせ、組合との関係が疎遠になり、労働運動は沈降してゆきます。多くの労働者が組合も労働運動も当てにせず、保身に走ります。会社の思うツボですね。

 すべて会社の選定した役員で埋められてしまった労働組合は、まったく当てにできないものなのでしょうか。組合役員はすべて役員の労を出世の足掛かりと考えているのでしょうか。そんなことはありません。そうなってしまうのは、職場仲間が彼らを信じないからです。

 会社が、労働組合の役員を選定するやり方はこうです。社内のスポーツクラブや同好会、車掌や運転士登用時の指導員との師弟関係などを利用し、そうしたグループから昇進した監督職が、グループ内から会社公認の役員候補を推薦します。白羽の矢が立てられた者は、保身のためあるいは先輩監督職の成績のため、同じグループの後輩の成績のために立候補を承知します。グループの仲間のためという大儀が、彼を自分は正しいことをしているという判断に導くのです。極めて縦社会的な方法ですね。
 そうした候補者の中には、役員としての出世を目指し職場のリーダーシップをとろうと野心に燃えている者もいますし、本当に職場のために頑張ろうと思っている者もいます。それなら会社公認を背負わずに民主的な立場から立候補すればよいのですが、会社の強硬な選挙対策の前に敗退することは目に見えているので、当選するために会社公認を利用してやろうとういわけです。
 そして、組織選挙によって当選した代議員に対して、会社は監督職を使って緊密なコミュニケーションをとり続けます。監督職は、役員たちに対して、会社の労務政策を利用して自分たちだけ出世しようなんてことは言いません。会社の将来は君たちの双肩にかかっている、一緒に会社を守っていこう。経営の事情も解らずに自分たちの権利ばかり主張する労働者の要求をなんでも飲んでいたら、会社は衰退するだけだ。会社が豊かになれば労働者の賃金も増やすことができる。職場仲間を守ることにもなるのだ。今はむかしみたいに単純な社会情勢ではない、会社が生き残るためには、労使が強調して厳しい時代を乗り越えて行くしかない。何も解らずに勝手なことばかり主張する労働者の矢面に立つ役員さんたちは本当に大変だと思うが、君たちの努力はきっと報われる…。そんな感じで激励するわけです。
 これに対して職場の労働者はどうでしょう。組合主催の集会や行事なんてバカバカしくて参加できない。会社公認の役員は信用できない。役員と話しをすると上司につつぬけなので注意しないといけない。そんなふうに組合の役員を遠ざけているのではないでしょうか。
 会社側は監督職に高給を払って組合役員に積極的にアプローチする、共に頑張ろうと毎日のようにエールを送る。これに対して労働者は、信用しない協力しない、言うだけ損だという態度です。
 職場のために本当に頑張ろうと思っていた役員も、労働者の非協力と無関心、敵視ともとれる態度に落胆してしまいます。これに比べ会社に付いていると、自分の努力が評価されるし、会社を守るという使命感を実感できるし。身勝手な要求と不平を言うばかりで努力しない労働者よりも、会社に付く方が良い結果が得られるのではないか、正しいのはやはり会社なのではないか、そんな気持ちになってしまいます。

 労働者は、労働組合の役員を信頼しなければなりません。信頼関係こそが横社会の力なのですから。役員たちと仲良くなり、職場で問題が生じたら役員を頼りにしましょう。
 会社との交渉を直接行なうのは労働組合です。不満や怒り、要求は、役員を通じて会社にぶつけなければなりません。職場の仲間が積極的に組合の行事に参加し、組合を頼りにすれば、労働組合は必ず労働者のために働いてくれます。労働組合の名を冠している以上、それを拒むことはできません。そして1人よりも2人、2人よりも大勢で意見を統一して役員に働きかけましょう。
 労働組合を育てて行くのは労働者自身です。組合を信頼し熱心に働きかけ続ければ、きっとその信頼に応えてくれますし、労働者の大きな力となってくれます。

安全を守る闘い

 これまで別項でも述べて来ましたように、安全は文化です。職場で実際に働く労働者の創意によって安全策が産み出され、種々の問題点が解決されて来ました。事故や失敗が教訓として生かされて来ました。どんなに立派なマニュアルがあっても、すべての異常をそれで解決することはできませんし、安全保安装置は人間の作業を補佐するもので、想定外のアクシデントまでカバーする応用力はありません。
 企業やそれを監督する関係省庁は典型的な縦社会です。経済力という力関係で成り立ったこの社会システムでは、至上の目的は利益です。安全が維持されないと経済的損失につながるから安全を守ろうとするのです。
 ですから安全のための経費が経済力を阻害するようであればそれを削ります。経済効果と両立できる安全策があればそれを優先します。そうした発想から製品管理の規制緩和が進められ、機械化による人減らしが進められるのです。
 労働者の負担が増え、疲労が原因のミスが増えると、企業は事故の個人的責任を追究し、監督省庁は労働者の資質の向上を求めます。ミスを起こした人間にペナルティを加えたり、辞任に追い込んだりすると共に、スタッフ全体の指導や監督の強化、適性基準のレベルアップを行ないます。そうした圧力は労働者を疲弊させ、現場で育まれた文化を疎外します。確認動作がどんどん増え、作業が煩雑になります。
 現場のスタッフは適性検査や健康診断をクリアするために心身の能力のスキルアップに努めなければなりません。厳しい監督下では応用や実験的行為も行なえず、これまで現場で培ってきた慣例的手順も否定されます。
 会社は小数精鋭を求めながら、現場の判断力には期待しません。上層部で考えたマニュアルだけが正しく、安全保安装置はエラーを犯さない。安全保安装置の充実が労働者の負担を軽減するから、その分人を減らして仕事量を増やすことができる。ミスした者に責任をとらせれば、それで会社として責任をとったことになる。さらには、わずかなミスも見逃さず個人に対して責任追究の圧力を加えれば、その者を辞任に追い込み、人員削減ができる。
 企業は安全保安装置を充実させて大きな事故につながるミスをカバーすれば、小さなミスについてはむしろ歓迎しているのではないかとさえ思えます。ミスした者に圧力をかけて、その者を辞任に追い込めるからです。熟練のスタッフや、よく意見を言う中堅のスタッフがミスをすると、会社の責任追究はひじょうに厳しいものになり、会社に忠実で選挙対策などにも協力的な者、契約社員等の低賃金の者の責任はあまり追究しません。監督職のミスにいたっては、それを隠蔽したり、軽微で問題が小さいとごまかしたりします。

 企業や政治が縦社会であり、まして長い歳月を生きながらえ、官僚主義的体質で凝り固まってしまっている状態では、力関係を示し威嚇によって体制を維持することが当たり前になってしまっているので、人間性はまったく失われてしまっています。
 大企業では、実力のある上司たるもの部下に嫌われるくらいでないといけないとさえ言われます。部下に警戒されること、恨まれることが実力の証しになります。幅広い知識や思慮の持ち主よりも、利己的で損得感情の強い者の方が上司に向いています。彼らは、口では立派なことを言い、一見すると利口に見えるのですが、話す内容を注意深く聞くと、ひじょうに短絡的な考えしか持っておらず、他人の意見を聞く能力に乏しいことが判ります。

 筆者は鉄道員なので、交通関係の事情以外にはあまり知識がないのですが、それ以外の様々な業種でも事情は変わらないのではなでしょうか。マスコミの報道で、食の安全、医療の安全、製品やサービスの安全が脅かされている事件を知るにつけ、爛熟社会の弊害がどんどん大きくなるのを感じます。不正や腐敗が発覚したり、事故が発生したりすると、責任の所在ばかりが追究され、縦社会が持つ根本的な欠点を解決しようとは誰も言いません。責任者が辞職して、企業が監督体制を強化したところで、その監督体制自体に問題があるのに、誰もそれを指摘しません。

 筆者は、革命家でもなければ、アンチ資本主義者でもありません。国家というものが存在し、外交によって人間社会が回っている以上、イデオロギーを否定し、世直しを唱えることはあまり意味がありません。
 政治家や企業を攻撃するよりも、むしろ一般民衆にものを言いたいです。民衆ひとりひとりに、もっと自分たちの実力を認識してもらいたいのです。敬遠と無関心によって政治を遠ざけたり、労働組合不信に陥ったりしてほしくないのです。悪いのは政治や企業ではなく、あきらめている我々であることを自覚してほしいのです。
 本箸をお読みいただいた聡明な読者諸氏は、なにが大切でどうすれば良いのか、すでにお分かりのはずです。無理せず小さな努力を重ね、仲間同士の信頼関係を強固にしていくことで、どれだけ大きな力が生まれるか、そのことが企業の体質を変え、政治を動かし、人間社会の明日を築くのだということを、みなさんは理解されているはずです。
 はじめは何もしなくても良いです。前向きな意識を持つ、それだけでも世の中を動かす力になっています。気持ちがあれば行動する機会は必ず訪れます。焦らずゆとりを持って、できることから少しずつ始めてゆきましょう。焦りは禁物です。ひとりで大きなことをしようとするのではなく、みんなが少しずつ力を出し合いましょう。みんなが、ひとりひとりの力を信じ、明るい未来を信じることができれば、世の中は必ず明るい方向に動き出します。人間は遠いむかしから、そのようにして世の中を動かして来たのです。そのようにして権力主義の社会を民主化して来たのです。

 作業の安全、心身の健康は、企業が守ってくれるものではありません。輸送の安全、食の安全、医療の安全、製品やサービスの安全を本当の意味で守っているのは、労働者の団結力なのです。

| 1/1PAGES |

●本著の読み方
最初に目次(↓)を表示させ、各項目を
クリックして記事をお読みください。
記事は基本的に上から順番に読みます。

サイト内検索

姉妹サイト:ももにゃん

姉妹サイト:ももちゅう


recent comment

プロフィール

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM